それはそうかもなのだが

 ⇒セくらえ管理部 - 真昼からシャセイ日記(「セックスなんてくそくらえ」管理人日記) - 翻訳と作家に関する雑感

 村上春樹は文芸翻訳家になってからつまらなくなった。いや、作家として壁にぶちあたったから翻訳をやりはじめたのかもしれない。おそらくその両方なのだろう。彼にとっての「翻訳」は、たとえば村上龍田中康夫の「経済」や「政治」にあてはまるのだろうと理解している。

 同意が半分。もっとも彼はある種の知的負荷を生活に与えるためのエクササイズというのあるだろうけど。
 半分は、小説の限界を思考することだったのでないか。
 というのは、彼の翻訳はいわゆる翻訳ではなく、現代英米作家を読むということであり、それは現代日本文学を読むということと両輪的なものだったと思う。そのあたりは以下によく出ている。

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若い読者のための短編小説案内: 村上 春樹
 noon75さんが万一これ読んでないなら、まあ、あまりこういう言い方は偉そうなのでしたくないのだけど、読んで味噌、これ。
 
追記
 "The Elephant Vanishes"を味わえるほど英語の能力がないのでとほほなのだが。
 そして反論ではないのだが。
 "The Elephant Vanishes"に現れる英語の春樹、あるいは、これは、ある部分、韓国語の春樹、中国語の春樹(余談だが特亜とか言われる国で春樹は正確に読まれている)でもある。ただ、それをもって、春樹のユニバーサリティではない。
 ここがとても言いづらい点なのだが。
 春樹がそのようにユニバーサルに読めるのは、米文学のユニバーサリティをよく学んだからというか、学ぶというより、ニューヨーカーたちが文化的な様式のなかで生のユニバーサルな点を浮かび上がらせる課題をつきつめたからで、その最初の試みが英語に宿った。
 そこを春樹はうまく掬い取っている。それは、概念としての獲得ではなく、作家という身体性において吸収したから成功したのであって、貶めるわけではないがその陰画が池澤夏樹だろう。もっとも彼の文学の価値やその感性の問題ではなく、あのどっかの国の大学で文学教授になりそうな部分についてだけだが。
 で。
 "The Elephant Vanishes"に現れる英語の春樹の、そのある種のユニバーサリティを支えているのは、日本語の近代小説というものなのだ。つまり、そのある奇妙な日本的な違和の根源的な問いかけであって、別に言い方をすれば、ニューヨーカーたちがみつめる生の根源生、その規定にある奇妙な文化=民族性なのだが、戦後日本人はそこを禁じ手にされてしまった。つまり、ある奇妙な文化=民族性に委ねることができない部分という課題がもたらす齟齬なのだ。ちょっと飛躍したいいかたをすれば、三島由紀夫はユニバーサルだし、そう読まれうる。だが、あれは、大きく間違った戯画というか、小説が我々(戦後日本人)の生を写しだす本質的な課題をもたらざるを得ないとすれば、間違いなのだ。
 というところで、春樹は、そこに結果的に立たされてしまった。
 そこで、春樹は、実は、三島由紀夫的なもののと、逆説としての戦後日本人の小説=第三の新人的なもの=新しい日本語、という課題を統合して出てこざるをえなかった。
 その意味で、"The Elephant Vanishes"がすばらしいとこの日本で日本人がいうためには、その逆説的な戦後日本の言語空間をどう受容するかということのほうが、難というか、前方参照的に問われている、と、私は思う。