そうなんだろうかというか

 ⇒ITmedia アンカーデスク:検索エンジンが「ユーザーのその日の気分」を知る方法(中) (1/2)
 細かいところや人間関係的なお楽しみ話題は捨象して。

集合知=ソーシャル>から自分の必要な情報を得るという仕組みに限って考えてみると、その集合知の母集団がどのようなものかがかなり重要なテーマなのである。つまりはコミュニティーへの帰属の問題なのだ。

 これが中心命題かな。
 ほいで、ぶくまの場合に、そうしたコミュニティーへの帰属(はてな村)が問われている、ということか。
 そういう側面はある。
 で、問題の起点というか、佐々木俊尚にとって、ぶくまというのは、はてなブックマーク - 人気エントリーのことを指しているのだろう。
 だが、はてなのなかにずぶずぶいる私や、ぶくまをもう長く日々使いこなしている、なんというのかドライブ感覚というか、そういうのからすると、あのですね、はてなブックマーク - 人気エントリーなんか見ないです。見ても、ネタ程度。あるいはDBです。[あとで見る]タブのプールっつうだけ。
 じゃなにを見ているかというという問題になるわけで、そこが佐々木にはドライブ感覚としてつかめていないというか、もうちょっというと、ぶくま者になっていないで、その対象をメタ的に論じられるというか、ドライブ感覚への畏怖感みたいなのが欠落している、と思う。
 というか、こうしたnew beingな世界はあるドライブ感覚が重要というかその嗅覚のようなもののなかに本質がある。こういうとべたな批判のようだが、中で引用されている松永さんのWeb2.0観はちとドライブ感覚の鈍さがある。ネットを離れていたからか、歳食ってきたか。Bigbangさんのネタのリンクも、なんというか、今起こりつつあるネットの内側の感覚より、ある種年長者的な経験・総合知による批判に批評感覚が依拠している分だけ、古い感じがする。
 もともとある言説のフレームワークが今の事態(new being)と合致しないというか、ドライブ感覚というのの感受には、厨的というかウンコまみれなある決意のようなものが前提にあるのだが、佐々木と限らないがこうした批評者は、そこへの距離感がそのまま知的な言説のための距離感(操作的な距離感)として理解=錯覚されているのだろう。それは、またべたな批判っぽくなるのでごめんなさいだが、佐々木の言説への今の側からのつまらさ=ドライブ感のなさ=だから大衆的な言説足りえるメリット(メディア的なつまらなくなくね)、ということになっている。
 ぶくま者がなにを見ているかについてはドライブ感覚の内部の人にはべたにわかっている。というか栗先生とかずぶずぶに理解しているが、逆に彼は佐々木のような言説に出てこれない、大衆的な言説足りえないデメリットになってしまう。
 もう一つ。ぶくま者が何を見ているか(あえて詳細しない)に加えて、彼らがなにを選択しているか? これはacutenessとでもいうべきなにかだ。実は、非モテなどで覆われている言説は、彼らが社会のなかである痛みによって追われて探している求めているものに対して、はてなやぶくまが結果的に答えるような技術の展開があるということなのだ。つまり、コミュニティーへの帰属が先にあるのではなく、あるacutenessを表現させる場を具現させたのがはてなの技術と経営方針だった、そしてそこからはてな村みたいなものが見え始めたということだ。もっと言うと友情とか馴れ合いより、acutenessだけがrealである感覚を身体に正直に反映させ言葉化するという(disられあうことのヒリヒリ感がリアルなのだ)、あるとんでもない事態がこのはてなのなかで今進行しつつあるのであり、それはそれが失われたとき、あるいはacutenessの喪失が複数の言説者を形作るとき振り返って見られうるなにかだろう。