若い頃ニーチェをよく読んだ時期があった

 講談社文庫のツァラトゥストラハイデガーの註をつけていた。あれがよかった面と悪かった面があるかもしれない。というか、結局ハイデガーを読んでいたようでもあるし。
 あのころ、西尾幹二が文壇?というかニーチェ学者として出てきたのだが、私のような高校生レベルで、こ、これはニーチェが読めてねーとか思ったものだった。ツァラトゥストラは四部あり、三部で大きな転調のようなものがある。永劫回帰の問題でもあるし、<正午>の問題でもある。だが、西尾はせいぜい一部で留まっていた。この人には西洋の思想というに取り組む胆力とういのがないのではないかと若造ながらに思った。というか、ハイデガーですらというかハイデガーだからかということもかもしれないが、彼の持つテキストを読み解こうとする妄念のようなあるいは自己規律のようなものが、西尾には感じられなかった。その後の西尾については率直にいってほとんど関心ない。吉本が意外に西尾を評価しているのはむしろ大衆的な視点からの物言いかなとも思うが。
 ドゥルーズニーチェも散発的に読んだが、これも今思うとなんだかよくわからないというのが今時点の感想だ。私の感性だけの問題かもしれないが、ドゥルーズはいいことを曖昧に言っているがよくわからないというか(ドゥルーズチョムスキー評を読んだときこれはただのバカで終わりでよいのではないかとも思った)、あれは多分にエソテリズムなんじゃないかと思うしそう思うと理解できるところがあるが、あまりそう語りたくはない。エソテリズムというのは現代思想の枠組みで語ると括弧良さげだが、最低だろう。シュタイナーなどはシュタイナーに至る思想史の枠組みで捉えるべきでその後の現代思想的に解釈されるべきものではない。
 ツァラトゥストラは豊かな詩で、いわゆる思想的に解釈される以上のもものを多く含んでいる。このところ、高人のことをいろいろ思う。
 超人などそれほどたいしたテーマでもなく、ある意味で永劫回帰も。それよりツァラトゥストラが最後までテーマとしたのは高人(Der hohere Mensch)の問題だった。
 四部でツァラトゥストラは七高人対話するのだが、ニーチェの慧眼は高人の意図が同情であることを見抜く。高人への同情というものをいかに克服するかというのがツァラトゥストラの最後の課題だった。
 高人というのは、ネット的にコンテクチュライズするなら知識人なり知識人もどきであろうか。もっとも旧来のようにきちんとした教養を持った人という意味ではないが。慰撫の志向を隠し持つ知的対話へ決別こそがある意味でニーチェの最後の思想だったかもしれない。