渕先生逝く

 ⇒池田信夫 blog:第5世代コンピュータ

しかし学問的には、ICOTの失敗によって、人間の知能に対する機械的なアプローチが袋小路であるということが実証された点には大きな意義があった。自然言語の本質はプログラミング言語のような演繹的な情報処理ではなく、脳はノイマン型コンピュータではないことが(否定的に)明らかになったからである。ではそれが何なのかは、いまだに明らかではないが・・・

 その結論はちと早いのだが、まあ、歴史的に見れば妥当な評価かもしれない。(補足、ノイマン・マシンの問題というよりオートマトンという説明論のありかた。)

 彼らは、文法はチョムスキー理論のような機械的アルゴリズムに帰着するので、それと語彙についての知識ベースを組み合わせればよいと考えていたが、やってみると文法解析(パーザ)だけでも例外処理が膨大になり、行き詰まってしまった。
 結局、自然言語処理は途中で放棄され、「並列推論マシン」というハードウェアを開発することが後期の目標になった。

 「並列推論マシン」とかへの流れの違和感もその通りだが。
 ゴセの人たちは、チョムスキー理論がよくわかってなかった。すでに拡大標準理論とかもあって、G&Bの時代だというのに、ゴセの人たちは、Syntactic Structureバリのというか、ハリスレベルのtransformationを実装しようとしていた。というか、Categorial rulesとTransformation rulesの違いがわかってなかった、とまではいえないが、なぜそうなるかというSemanticsがわかってなかった。
 というか、すでにその時点で、S構造とD構造を理解していなかった。
 チョムスキーがあのころやろうとしていたのは、UGを特徴付ける形式の、いわば例題的なものであって、あくまで目的はUGにあったので、その後のminimal理論へはきちんと流れがあった。
 ただ、minimal理論のフィルターとかも、とてもmachine implementできそうにない。
 Semanticsという点では、むしろモンタギューを実装出来そうに思えたがのだが、このあたりもチョムスキーによるモンタギュー批判がきちんと当たっていて、つまり、同じことになる。
 その後のontologyに至っては、また、異なった闇に突入とも思える。
 順繰りになってしまうが、コンピューター・サイエンスというのは技術なんで、とりあえずやってみるではないか。つまり、理論のひな型を実装するのではなく、現象を模してみるが大切かもしれない。
 コミュニケーションについてはストラテジーとしてアフォーダンスがありそうとか。
 ただ、言語はどうもそういうアフォーダンスですらなさそうだが。