うひゃ、こんなことになっておるのか

 ⇒天皇機関説事件

1935年、天皇機関説が排撃された天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言った。 昭和天皇帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわらず、直接・間接にはなんら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述懐を、昭和天皇のリベラルな性格の証左としながら、同時に、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述は、しばしば見られるが、現実にはそれほど単純でない。

 「現実にはそれほど単純でない。」?
 なんだ、その記述は?
 中野学校ですら、天皇機関説で通していたのだよ。

機関説は、国家法人説と呼ばれるドイツの学説に由来するが、この学説は国家の本質を「法人」とする点において主権及び主権者の存在をあいまいにする意図をもった学説であり、当時すでに、後発資本主義国であり、外見的立憲主義の典型とされていたドイツにおいてさえ「時代遅れ」とされていた。しかし、戦前期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するという点において、社会科学的思考と結びつく側面をもつと同時に、吉野作造の「民本主義」と並んで護憲運動や大正デモクラシーの理論的バックボーンを演じていたことは、日本資本主義がドイツよりもさらに後発であることと立憲主義がさらに外見的であったことを反映していた。しかし、昭和天皇がそこまでの理解を持っていたかは疑問である。昭和天皇の理解していた機関説は、「一機関」としての性質を強調する一木-美濃部ラインのものではなく、有機体の「頭部」であることを強調する、清水澄の学説に近かったとする説もある。

 あほか、これ。
 機関説一般と、実際に当時の日本がどういう統治形態だったか関係ないじゃんというか、後者から議論すべき。それは、昭和天皇がどう認識していたかではなく、昭和天皇がどう行動していたかだけが問われる。
 実際のところ、昭和天皇は国会に逆らうことはなかったという意味で、機関として行動した、たった2つの例外を除いて。
 その例外を天皇に強いたのが日本国民の側であった。