朝日社説 キトラ公開 白虎が語りかけるもの

 こういう話を書いてくれると歴史好きの私としては嬉しい。さて、ツッコむか、と。

 ちょうど日本が朝鮮半島に出兵し、新羅(しらぎ)と唐の連合軍に敗れた「白村江(はくすきのえ)の戦い」(663年)の後にあたる。日本書紀によると、戦後すぐから新羅との間で使節の行き来が頻繁に行われた。途絶えていた遣唐使も702年に復活した。
 歴史学者で京都大名誉教授の上田正昭さんは言う。「白村江の戦いで日本は国家存亡の危機に立ったが、外交交渉で切り抜けた。今よりよほど巧みだった」
 文化財の活用とは、歴史に学び、現代に生かすことである。白虎の一片の絵は、東アジアのなかの古代日本のありようを浮かび上がらせてくれる。

 来たな小手先騙し。
 「ちょうど日本が朝鮮半島に出兵し」と、ビミョーにごまかそうとしているな、と。いろいろ詳細に見ると屁理屈も付くがざっくり見ればこれは百済の依頼だった(軍事同盟)。で、朝日の馬鹿たれ、わざとらに百済のくの字もねえ、と。
 敗戦後、百済遺民が日本に亡命し、日本の政権内部にも入った。っていうか、やがてはこの百済派が百年の闘争の後、平安京という日本のレジームを作り出すわけで、奈良時代とはその混乱期。なぜ混乱したかはあとで触れる。かくして平安王朝は百済遺民系との混血王になる、と。
 で、そういうなかで「新羅との間で使節の行き来が頻繁に行われた」というのはどういうことかと考えろよ、高校生じゃないんだから、お馬鹿。ちなみに新羅もまた対唐の外交に置かれていたのも忘れずにな。
 で、ここから先は定説ではない。
 日本は唐に敗戦し、GHQ下に置かれたようになった。九州にはお目付役所なんかもできている。っていうか、壬申内乱が起きたのは唐の差し金でしょ、国際外交的なセンスがある人が日本古代史を見れば。で、この唐誘導の内乱・レジーム交代を正当化する必要があって書かれたのが日本書紀(この書名はいろいろ問題あり)。
 唐と仲良くやっていたのではなく、唐GHQが日本を見張っていたということ。
 ま、以上は定説ではない。トンデモっていうことなんだろうと思う、史学的には。なので、そこまで馬鹿朝日新聞とか言わないよ。