いや、そうではないと思うのだ

 ⇒■[社会][メモ]とか言いながら、スグにまた脊髄反射的に 10

その場に立ちあわなければ、その出来事の事実を「知る」ことは出来ないし、その出来事を「知って」しまった人は、その出来事を「客観的、全体的、歴史的に把握する」ことは出来ないのではないかと思うのです。

 ちょっと若い人に刺激的な言い方になるのだが、三十年から四十年くらい生きてみると、自分の人生というのが歴史のなかに埋め込まれている、ぅあっ、俺って歴史なんだという奇妙な感触が出てくる。簡単な部分では懐古だが。それは若い世代には伝えにくい時代感覚かもしれない。
 そして、その自分が歴史である、そうか、人間が歴史なのか、というところから、人は人の体験に独自の内的な歴史の感覚から耳を澄まそうとするようになる。
 このあたりがうまく言えないのだが、人の話を聞くというのがコミュニケーションとかいう次元だけではなくなるし、まして真偽だの善悪の判断ではなくなる。
 戦争や震災についても、老人などから聞いてみるのだ。あるはその肉声のある文学や史書を聞くように読んでみるのだ。
 「客観的、全体的、歴史的に把握する」ということは、歴史の認識ではない。
 歴史の認識というのは、小林秀雄がよく言っていたように、死んだ子の歳を数えるようなもので、ある情感を元にしている。
 ここまでいうといろいろ反論されるだろうが、もう少し明確に言うと、歴史を知るというのは、己が日本人であることを知らされ日本の歴史に刻まれていくことだ。
 先達の成功・失敗、愚行・善行、その全てを、それが自分の父母であるように受け止めることなのだ。
 それは必ずしも「愛国心」でもない。うまく言えないが、そういう情感を経由しない普遍的な人間の認識がありえないという条件でもあるのだ。
 理想的には、民族の歴史と情感は、人類の進化のなかに昇華されるものだが、それはそう理想的にはいかない。
 パウロ書簡のなかに、神がユダヤ人を選んで心をかたくなにしているというようなくだりがあるが、人間である情感は普遍性の原理から天下ることはできない。