そういえば昨今のムスリム・カートゥーンだが……

 聖書学というのは今世紀に入ってとても不思議なものになった。
 普通の人は聖書学なんてクリスチャンがするものだと思っているだろうし、信仰のたしにならない聖書学など無意味という話にもなるだろうし、日本の世間もそう思うだろう。
 しかし、聖書学の中に入るには、ある種の、ものすごい決意が必要になると思う。いや、必要でもないのか。聖書学は聖書をずたずたにする。それに耐えられる信仰というのはなんだろうかというのを神学的に問わなくてはならない。ブルトマンなどがとりあえず防波堤を作ったものの、その本質は難しい。トロクメやイェレミアスなどは古典的過ぎる(と思う)。
 聖書学は神学から生まれたものではなく、近代合理主義というか、市民革命的なエートスというか、神の子を偉人という歴史にモルドする情念から派生したのだろう。ルナンのあれだ。そして、その帰結はある意味でシュバイツァーであり、また彼の人生でもあった。あれが大きな倒錯なのだと言うことはとても難しいが。
 聖書学を切り開いていく過程では、昨今ムスリム非難のようなことがいろいろあった。あまり日本人には知られていない。いや私もそれほど多く知っているわけでもないし、その歴史がきちんと書かれたわけでもない。
 聖書学はすでに史的イエスを事実上棄却した。史的にはナザレのイェホシュアはいたのだろう。そして彼は、ヨセフス証言によっていたということと、ローマ法から見て政治犯であったろういうことくらいしかわからない。聖書が語るイエスはケリュグマである。
 しかも、Q系のそれと、パウロの神学とは異なる。Qはヘレニズム的な賢者の流れにあり(同時代のラビたちも)、パウロはすでにイエスはそれ自体がシンボルというか啓示であり、そのなし得たQ的な話はすべて無化されている。
 そして、その後の教父からニケヤ信条までの神学もQともパウロ神学とも異なるものだ。
 もちろん、そこにある一貫性を見たいという情念は仮定されている。それが聖書学が隠しているものであり、そしてそれこそ不信でもあることが聖書学を進めていく。
 聖書学がなにを求めているのか、私は、かすかにこう答えてもいいのかもしれないと思う、それは理性だと。