日本語の論理?

 とかいう人がいるのが不思議でならん。
 論理というのは日本語に限らない。つまり、日本語の問題ではない。おわり。
 (厳密には文法と修辞に関連することがある。たとえば、日本語には間接話法や接続法が十分に発達していないので、法の言語としては弱い……軍隊の言語としても弱いところがある。)
 日本語が問われるのは、日本語でしか問えない歴史がはぐくんだ情感だけだ。この言語のなかに生きる情の問題だけのこと。
 たとえば、
    玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする
 の論理というものがある。そしてその論理で言葉と文法を置き換えていけば英訳もできるのではないか。しかし、本当の英訳はこの情感をかみ砕き、英語という言語の歴史感覚の情感に問わなくてはならない。
 現代の日本人でも恋のただなかにあるとき、「忍ぶることの弱りもぞする」を知る。
 なにを学ばずとも、日本語という恩恵がそれを伝えてくれる。