これも少しコメント

 ⇒ネットは新聞を殺すのかblog

端緒はどこであってもいい。JANJANであっても、ツカサネットであっても、ブログであっても、テレビのニュースであってもいい。どこかでだれかが発信した情報がネット上の口コミで広がり始める。その広がり具合をブログ検索エンジンなどのネット上の話題を見つけ出す仕組みが察知する。独特の計算方式を使ってネット上で話題になっているウェブページをランク付けする「話題の.jp」や、人気ブログ検索サービス「テクノラティ」の検索キーワードランキングなどは、ネット上で何が話題になっているのかを調べる道具として既に存在している。今後こうした仕組みはさらに技術改良が加えられ、使い勝手や性能が向上する方向にあることは間違いないだろう。

 そうはならない兆候がぶくまに見えるのだが。
 ぶくまははてなという集団知に支えられ、それにある種のコアがある。
 まだ総体が大きくないがそれでも、問題はこの特定の集団知が未来的なジャーナリズムのコアになっていくだろう。
 で、そのぶくまだが、すでにuser=5あたりで、質的な転換が行われる。
 最近の自分の実感だと、注目されている(読まれている)エントリとぶくまにずれが起き始めている。
 ぶくま数=注目、というより、集団知による該当エントリのデバッグという趣きになってきている。
 もひとつ、ぶくまがぶくまで話題になるというのは、足を食ってる蛸かいな的でもあるが、こうした動向への洗練の過程でもあるのだ。
 ちょっときつい言い方をすると、湯川さんはSNBというかWeb2.0の世界から実はずっこけ出しているのだ。もうちょっと示唆的にいうなら、湯川さんがぶくまを初めてみるといいだろう。

内部告発、政治情報の充実
 この基本形に加えて、今後の変化を予感させる幾つかの兆候は既に見え始めている。
 1つの兆候は、内部告発の増加である。1980年代、90年代ころからだろうか。談合、情報隠蔽など、これまでは業界の常識、必要悪とみなされた商慣習が、明るみに引きずり出されて裁かれることが増え始めた。社会人としての常識よりも、企業の社員、業界のメンバーとしての考え方を優先することが、犯罪として取り扱われ出したのだ。それに加えて年功序列、終身雇用という商慣習も崩れ始めた。その結果、会社や業界に対する忠誠心も崩れ始めた。それに加えてインターネットという情報発信ツールが広く普及し始めた。内部告発を誘発する環境が整ったわけだ。

 嘘だとまでは言わない。が、その兆候は嘘だ。それは卵焼きじゃない沢庵だ的。
 現在進行しているのは、内部告発と見られるフィクションだけだ。
 その典型がきっこのブログで、ヒュンデ的フカシが只物でネットに乗り上げているだけだ。きっこについては、もうしばらくで耐震偽装フカシが全壊する、狂牛病問題煽りは専門スジには苦笑でしかない、その他の芸能ものなどどうでもいい。むしろ、こうした釣りに易々と蛭子さんじゃない立花隆がぱくつく、そういう既存知性というか文春ジャーナリズムの崩壊のほうだ。
 ネットでは朝日ジャーナリズムの崩壊がよくネタにされるが、実はもっと問題なのは、文春ジャーナリズムと産経言論の崩壊のほうだ。
 こうした崩壊は小泉革命の派生でもあるが、むしろ、常識の瓦解過程にある。
 昔誰だったか東大総長が卒業生に向かって、卒業後、文藝春秋なんか読んでる人間になるなと諭していたが、そうした常識・教養が瓦解してきた。
 話がそれるし多少引くものがあるのだが、ポップな左翼なり新教養主義などは、知性を審級性のカタログ化にしてきている。例えば、書評ブログを書評だけかねと批判するのは野暮というのはあるだろうが、そうした知性=左翼性=書籍紹介という構図にあるのは、常識・教養的フィクションをその審級性においてのみ成立させようとする常識・教養の偽物なのだ。ある書籍Aが批判されるとする、なぜか、それよりすぐれた書籍Bがあるからだ、という審級性のネットワークであり、そのネットワークの背景の出版社的学会的な知性の権力の装置があり、ここでネットのポップ性に露出しているだけなのだ。むしろ、その審級性そのものを解体することがすでにニューアカでのかろうじての意義でもあったのに、またぞろ復権しつつあるのだ。
 審級性を廃して、私はこう思うということが求められている。という点で、真引きさんのお作文のほうが数百倍常識・教養的でありえている。
 学の世界から外れて知性であるなら、「私」から発言すること、完全にポップであること。
 そのポップ性の課題はむしろきっこの側である程度克服されている。が、そこにはいわゆるブラックジャーナリズムの只物化しか出てこない。
 ちょっととばっちりのようなことを書いたしまったが、課題は、たぶん、こういうところにある。
 であれば、いくつかのブログは、ポップでありつつ、常識・教養的に起立していなくてはならない。
 イデオロギーの完全な崩壊に「私」がどう耐えるか。そしてそこでどう笑うか、快活に。