お説教みたいな話4つ

 ボケとかハズシとかあるかも。

●たぶん人は無意識のなかを漂って生きている

 じゃ、それが変容することってないのか。
 難しいです。ちょっとズレまくるけど、頭のいい人っていうのは、生まれつきそうなのか、頭がよくないとサバイブできなかったからそうなった、の2つで、どっちもあまり幸せとは関係ないような気がします。幸せになるような人生の戦略というか立ち回りのうまい人もいて、で、それが幸せかというと、それもそうとも言い切れないような。ある種の人の人生は不幸を生きる運命かもしれません。ま、そういう意義を幸せに置き換えていくのでしょうけど。
 で、そうした無意識が変わることはあるのか。この無意識っていうのをもっと露骨にいうと、性の身体だと思います。一歳までと思春期のときの性の身体性への意識化でしょう。つまり、無意識のゆがみみたいのは性意識と身体意識(つまりそれが身体そのもの)のゆがみでしょう。で、ゆがんだものを直せとかいうのではないですが、じゃ、ゆがんでないというのはどういうことかというと、生殖に最適化された生き様でしょう。よい伴侶を得て子供をなして育てる、と。逆に、その過程で無意識と性の身体性は変わるのだと思いますよ。それにはよい恋愛をとでも言いたいわけだけど、ちょっと違ってからだに自然な恋愛をという感じでしょうか。ま、こういう問題を素で言うと昨今バヤゲですが。
 あー、結婚して子供を産めとかいうのではないですよ、為念。人間という生物の基礎的な与件がそうできているということで、いわゆる個人の人生選択というのは、どうあってもその人の自由だし、どう意味づけてもいいけど、そういう自然性との距離に規定されるでしょ、というのと、多数の人間はその距離の意識を複雑にはできないものでしょ、ということ。ついでにいうと、恋愛とか文化幻想とか言われるわけだしまどう言ってもいいのだけど、子供の意識のなかに父母が神話的に必要とされるに近いというのはそういう性の意識が生物的な与件で型取られているということでしょう。個人とか意識とかそういうふうに自身を意味づけて生きられる人は小数でしょうし、そういう生き様の人はそうなるしかないし、あまり悩むとかないしないのでは。あるいは悩みは別というか。
 たいていの凡人は、子供のとき父母を心理的に欲したように、自身が父なり母なりになり、そしてそこを経て死を受容するようにできているのでしょう。あるいは、それを擬した形態としての社会の関わりを持つでしょう。

●仕事について

 仕事というのはたぶん好きでないと続かないし、続かせるのが仕事というものだと思いますよ。なかなかうまくいかないものでしょうけど。植物とか好きな人は庭師の仕事は幸せなものです。皮肉ではないです。目先でカネになるよりどうせ仕事してすり減っていくのが人間なんだからできるだけ無理のない、好きなことをすべきですよ。他人の賞讃とかカネとか義理とかなかなかバランスが難しいでしょうけど。
 それと、これは自分には語る資格もないなと思うけど、仕事というのは人との関係だし、仕事によっては権力が必須になる。親子でもそうですけどね。こうした権力というのは本質的に恐るべきものですよ。避けられるかどうかわからないけど。

●自分が正しいと思うときはかなり欺瞞

 言うまでもないけど、意識というもの自体が欺瞞から出来ているわけで、たとえば肉まんが好きで買えてか作ってか食っているときは、肉まんが好きという意識状況はないわけですよ。うーん、餃子かな肉まんかな、こっちの肉まんが好きといった程度です。
 じゃ、正しいってなにかというと、ぶっちゃけ他者との関係なわけで、他者の関係における正しさというのは、本質的には権力ですよ。ただ、そうしないと社会がもたないという面もあるし、しゃーないかということもある。権力が一義に忌避されるものではないでしょう。
 で、どうやって生きているかというと、私もわからないけど、傷つくのを避けずにしかたねーやで生きていくしかないのでは。傷つくのを避けようとしたとたん、頓馬というか、ろうでもないことが始まりますよ。石化というか。自分に価値があると思い込みたくなる。でも、かなりな人が青春期には実感するけど、人間は無力で弱くて無価値です、でも、そうしているとき欺瞞は少ない。自分に嘘がないようにすれば(逆にいうと、状況状況において他人に自覚的に嘘をつくくらいはしかたないでしょ世間というもの)、世界はそれに比した美を見せるでしょう。

●三十二、三を越えたころ

 ニーチェツァラトストラはかく語りき、に、イエスを暗に指して、あいつは三十だからな、というシーンがあり、彼は四十なのだというくだりがあり、そこにニーチェのある思い入れがあった。
 私も覚えているのだが、男の三十二、三歳はイエスの身体に近い。ま、よほどデブというのでなければ、二十代のような花のようなエロスはないし、四十代の男のような色香とも違う、ある聖なる奇妙なバランスのようななにかが現れる。端的にいえば、イエス・キリストは伝説といっていいがその伝説がそのような身体を描いた意味はあるだろう。男の聖性のようなものはそこらあたりで死ぬように出来てるように思う。
 ほいで四十歳はというのはあるがま以下略。
 ま、でも、そのあたりで、なにか男の人生の切り替えはあるように思うし、たぶん、そのあたりで、子をなす時期でもあるのかも。