話題のジョッブス様のこれだが

 これ⇒PLANet blog.: スティーブジョブスのスピーチ

 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。

 確か、私の記憶では、スティーヴは20代前半でいちど結婚していて、もう30歳くらいになる娘がいたはずだが…。
 ま、それはさておき。

私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。

 これのミレニアムは私の書架にもあるはず。HyperCard的な文化だった。
 で、サビのこれ。

未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

 これは常に結果論ですね。
 サバイブしているというだけでなんらの勝利者
 だけど、彼も縷説しているわりにはいまいち明確ではないけど、死はそれをすべて断ち切る。
 「道草」ではないけど、人生片づくことなんかなんもない。
 ただ、死がそうであるから、人と違う生き方というのは裏打ちされているというのはあるかもとは思う。
 それにしても。
 多数の人は、社会という側面では、人生に失敗する。そうできている。
 自分の人生に意義を与えたいものだが、それは、常に結果論。でも、それは、たぶん、とてもパーソナルなものだろう。
 山本七平「静かなる細き声」に、罪人をかくまって暴行を受けそれが原因で失聴し、そしてその失聴が原因で事故死に至った人の話がある。山本は彼は幸せであっただろうという。こういうところにまたしてもクリスチャンというものがばっくり虚無のような意味のようなものを投げかける。彼らの信仰に従えば、主の奴隷でもあるのだし、失聴以外の選択もなければ、それが与えられた人生でしかないし、それは主の祝福とはまるで無関係でもある。
 多くの人がヨブ記を誤読するように思うと言えば僭越か。あの祝福のエンディングは後世の付け足しで、ヨブは灰のなかで病苦にのたうち回って死ぬ。なぜその苦しみがあるのか。彼は西洋人のように神はいないのかとは問わない。なぜこの苦しみがあるのかと神に問うだけだ。苦しみに意味を与えたいのだ。そして、神はそのなぜには答えない。
 ヨブ記の神はヨブの苦しみにヨブが願う意味を与えない。
 この神はヨブにお前の創造者は誰かと問い、そして、ただ自由の意志をもって従うことだけをもってサタンへの勝利とした。ヨブの死はサタンにはなく、ましてその自由もサタンにはない。
 人の幸せというのはわからない。
 棺をやすらかに閉じたいと誰もが願う。
 後世の名声を願う。
 たぶん、虚しく、ヨブの物語は長く人類に問いかけるというか、おそらく、神が問いかけているのだろうと思うところに、どうも人生には奇怪なものがある。