コホゲ峠

 コホゲもいくつか。
 ⇒gammaグループ - nobodyの日記 - [おわび]グループキーワードからのtrackback SPAM
 だ、だれにだって、意図しない、結果的な失敗はあるものだから、それは気にすることなんかないよとかいって、傷に塩を擦り込むのは、武田信玄上杉謙信に塩を送ったの故事のようにすばらしいとかいうと、それって歴史の事実関係が逆とかつっこまれたりするけど、そもそも史実じゃないかもしれないし、なんか話がななめだぞとか以下略。
 もひとつ。これを言うのはちとはばかれるかもだが。
 ⇒My Life Between Silicon Valley and Japan - 「コンピュータが将棋を制する日」は来るか?
 反論でも貶めたいとかいうのでもないのだが、将棋って駒の再利用があるからといっても原理的には有限状態のオートマトンなんで、しかも、実際にはストラテジーの縛りはかなり小さいセットで定義出来そうなので、理想的なコンピューターの定義によるが、数学的に結論は出る類のことだと思う。
 ちょっと別のいいかたをすると、サイエンス的には問題は終わっているわけで、アート(テクノロジー)の実践的なフェーズとその人間社会の意義ということなので、つまり、その後者における、将棋のようなアートの意味はなにか?と問わなくてはいけない。
 で、これは、まさにアート(技芸)なわけです。
 将棋アルゴリズムにアートはないんですよ。
 字引とそれなりの文法セットを与えても、文学を規定するのは実際には無意味というか、広義のガラス玉演戯問題というかという比喩はわかりづらいけど。
 で、それは大天才フィッシャーが見抜いていたわけで、だから、フィッシャーはチェスを真に芸術的にしようと模索していた。
 以前、ようこそ先輩で、羽生がでてきて、子供たちになにを教えるかというと、ゲームのルールを考案させ実践させようとしていた。こ、こいつもスゲー天才だなと思ったが、子供たちもスタッフもよくわかってないようだった。
 理想的なMIDI楽器があっても、演奏はできない。もちろん、出力側から規定すればできるというか、以上の議論もちょっと論理矛盾があるのだけど、本質は将棋はファインアートというかくどいけどガラス玉演戯なわけで、そういう側面と大衆性とのバランスだろうし、それはだから、ある人類史の段階で消滅してもしかたないという結論になるのかもしれない。
 たしか、羽生はそうした状況も見込んで、ある有段者以上の戦いは、偶然、とまで言っていたかと。
 現状では、梅田さんが引用されたように、ある程度勝負は成り立つだろうし、それは基本的に戦略の奇手による。というわけで、羽生がフィッシャーのチェスを研究しているのは、芸術的な奇手の美しさがあるわけだが…それも基本的に摩滅する。
 あれ? 反論でも異論でもないか。とコホゲ峠を振り返るのであった(完)。