私はもう定型も現代詩も関心ない…
というと気取った感じに聞こえるかもしれないけど、率直なところだ。
基本的に正岡子規に発する近代定型詩は、近代日本のような偽物であったと思う。それだけでの150年からの歴史はあるに違いないし、前近代との融合というのもあるのかもしれない。
私は、そういう近代芸術には、いつか関心を失ったし、その反動で、ただの古典愛好家になっていった。連句に一時期凝っていたが、遊びとしてという以上のものではない。ただ、発句(ほっく)というものと芭蕉という人がよりわかるようになった。
芭蕉は、なにを置いても、宗匠であった。
そして、発句は結局、彼の詩文と人生という自らが作った伝説と一体化した。
こう言ってはなんだが、荻原井泉水が残らず、尾崎放哉や種田山頭火が残るのは、言い方が悪いが、芭蕉の示唆どおりのパロディではあるだろう。
と、書きながら…
日本人は近代において国民的な詩歌を持たなかったのだと思う。
むしろ、童謡、唱歌、軍歌がその悪しきパロディであっただろう。
しかし、まったく、日本という文化が詩を失ったわけでもなく、歌いを失ったわけでもない。とは思う。それ以上は、野暮なので書かかない。