日経の春秋様ブログブームを嗤う

 ⇒春秋(4/30)

たしかに調べ物で検索すると個人サイトが大量に引っかかる。「さっき出張から戻った」とか「村上龍の新作を読んだ」とか、たわいない内容にがっかりすることも多い。名前や素性は明かさないが、それでもボクやワタシの話を聞いてほしい自称評論家やタレントがパソコン画面の向こう側にひしめいている。

 あのさ、批評というのの重要なポイントはだね、議論を深めるという意図がないなら、あるいは新聞社説みたいに権威が確立されたとみなされる対象ではないなら、けなす技術みたいな高等テクは使わず、よいところを褒めることが重要。
 そして、ブログがこの日本の市民社会をどうよくするだろうかと考える、っていう姿勢が、この春秋の執筆者さんにない。それは社会を育てるべき大人としては恥ずかしいこと。単純な話、日経の社員がブログに対して「たわいない内容にがっかりすることも多い」なんて書くのは恥ずかしいこと。

同じ構図をエルサレムの「嘆きの壁」で見たことがある。ユダヤ教徒は体を揺すりながら壁の「向こう側」に延々と語りかけていた。宗教の違いはあっても、自己と、自己を見守る超越者を言語でつなぐ行為が「祈り」だろう。情報化時代の神はネットの闇にも宿る。人を煽(あお)るのではなく、声を聞くだけの神であってほしい。

 ユダヤ人のお友達がいたら、この話をしてごらんなさいな。少し唖然とされるだろうと思う。ユダヤ人の思いがまるでわかってないように見える。