ブログと専門性…

 禁断のメタ論に入りつつあるかもしれないが、このくらいで止めにするので…。
 昨今のブログ論で、↓のFPNエントリでもあるけど、専門家のブログというのが出てこないという嘆きがある。
 そのあたり、ちょっと違和感があるのは、専門家はブログに出てくる必要はない、というか、出てきてもPVは取れないし事実上消える。ニーズがあるのは、専門家そのもののスクリプトではなくて、それを伝えるスクリプトなわけで、単純にいえば、専門と一般を繋ぐブログということになる。
 ただ、それも、そうした構図では啓蒙になるし、私のように吉本隆明に傾倒したようなタマからすると、啓蒙ですがぁ、市民主義ですかぁ、へなへなーは髪の健康…みたいなことになる。もうちょっと開いていうと、専門=権威、それをわかりやすく市民に啓蒙するというのは権力の構図であり、すでに失敗した構図なので、それをブログでなぞることはあまり意味がない。(専門性とは職業性のことだろうし、職能を通した産業構造の問題だろう。)
 と、いう発想はちょっと蛸壺化しつつある。
 いずれにせよ、ちょっと面白げに見える場というか話題というが、実際は、古いなにかの解体のパロディかもしれないなら、あまりそこでエンタテインするんじゃなくて、ちょっと別の方向性を考えたほうがいいだろうとは思う。
 もうちょっと言うと語弊があるので言わないが。
 じゃなくて、うまく言えないが、ある種の「連帯」の構築なのだろう。
 そう書いてしまえば、いわゆるネット上のヴァーチュアルなつながりとかにリダクトされるわけだが、そうした、対人的な関係・連帯でなく、そうではなく、ある種の社会合意形成の連帯だろうと思う。(mixiはそこで方向が違って「うざい」。)
 その連帯の基礎条件の作り方が、そう簡単に過去の事例から導けるものではない、ということだろうとは思う。
 つまり、語られた言説を審判するという言語内部に閉じるものではない、し、また外部の確実性の高い知識とのリンケージでもない。
 少し具体的な側面でいうと、例えば北朝鮮拉致問題や中国反日問題。基本的にこうした問題について、あまり声高に意見を述べる必要はない。また、特定の意見や特定の論者を信奉する必要はない。大抵の場合、大衆の健全な常識はこうした場合に無言なものだ。が、その無言がかつては、ある実際的な社会連帯の実感を伴っていた。現代ではそれがない。現代では、実体的な社会でのそういうコミュニケーションはないし、復権もできない。
 そうしたとき、ブログなりは、ある種、フツーなふーん、という常識的な連帯の水準を形成しえるように思う。
 むしろ、その連帯の水準は、専門的な知識による審判をそれほど必要としない。
 そうした連帯が必要なのは、すでに旧来のメディアが別の組織性(含権力)という側面を明かにしてきているためだ。
 必要なのは、ふーん、そーだよねー、である。
 例えば、これとか⇒らくだのひとりごと: 席を譲らなかった若者

 気の効いた意見というより、ふーん、そーだよねー、である。
 これを読んだ人がその若者のような行動をするかといえば、しないのではないか。ただ、こうしたエントリーを読みながら、ふーん、そーだよねー、というふうに意識を再確認するという連帯があると思う。そしてこの弱い連帯性は、デュルケム的な意味での連帯の代用にもなるだろう。