脊髄反射的な批判ではないがこーゆーのが武田徹とかとかについていけないところ。

 ⇒弱さについて  投稿者: 武田徹  投稿日: 4月26日(火)22時29分4秒

 ちょうど一年ほど前、2004年ジャーナリストコースの告知パンフレットを書いていて、養成されるジャーナリスト像のひとつに「弱者の声に耳を傾けられること」を挙げた。これは当時のスタッフに不評だった。戦後民主主義っぽいというか、プロ市民っぽい甘ったるさを感じていたのだろう。
 なぜ弱者の側に立つべきだとぼくが考えていたのか。カッコつけるなら、たとえばロールズをひいて「社会経済的不平等を認める場合の条件として、それらの不公平が最も不遇な立場にある人の期待便益を最大化すること」は正義として認められるからとか言えば良かったのかもしれない。しかしぼくの考えはもう少し泥臭かった。
 弱者は適応力に乏しくて(それは単純に能力的な問題ではなく、やり方が違うとか、達成に対する価値観が異なるとかといった理由に起因する適合障害である場合が多い。しかし適合出来ないからこそ弱者なのだ)共同体に負担を強いたり、危険をもたらすことも多い。だから排除されたりされがちだが、そうしたい欲求に耐えてあえて弱者を内部に抱え込み続ける。もちろん合理的に考えれば得な選択ではない。

 ここでは「弱者」がメタ。
 もちろん、武田徹のことだから請われれば、「弱者」の定義をしてくれるのだろうなと思う。
 ただ、そうした、「弱者」の規定が問題なのかという、問題フレームワーク自体への疑問はどの位相になるのかわからないし、その規定の装置の多様性に、フーコーのような視点がどの程度組み込まれるのかもわからない。なんとなくだが、武田徹の文脈から感じられるのは、規定それ自体にすでに政治を含んでいる点だ。当たり前でしょとか言われると絶句するのだが、つまり、また「政治」とはから問題になる。…というところで、やれやれ感が漂う。
 当面の問題としては、「弱者」を問うのではなく、個別のある集団を問わなくてはなららない。そうした思想の営みのなかから、弱者を逆に社会構造側に反照されるような知の営みが重要だと思う。
 ちょっと筆を滑らすのだが、私が、リバタリアンとかの議論に、ますます関心を失ってきているのは、それがメタ回路になってしまって、それ自体が、状況から逸脱していることだ。もちろん、リバタリアンとかを議論するなとは到底思わない。どうぞ。学問的にも意義はあるだろう。私は関心があまり持てないというだけ。(例のユリイカ的なブログ観にもほとんど関心がもてないのも、似ている、が、私が言うと誤解されるだけだし、批判しているわけではない。わずかに批判的に言えば、自己相対的にそれが語れない=浮いているあたりの先験的な優越性みたいなもを感じる点だ。ブログはまさにその語ることの先験的な優越性みたいのを壊していく運動ではないかと思う。)
 というか、状況的問題は、つねに、「私」を状況に還元する「力」と「私の意思」との齟齬から発する。そこだけにしか課題がない、か、そこだけにしか課題がないというまで「私」が問われなくてはいけない、と私は考える。
 人生論にしたいつもりはないが、すべての「問題」は、「私の生きがたさ」に極まる。そして、私がなぜ生きがたいかといえば、私が生きたいと願うがためであり、それを避けるには、願い=意思、を抹殺するか、私を抹殺すればいい、そうすれば、何かが幸福に生きるかもしれないし、死ぬかもしれない。
 アランだったか、すべての意思は対向する、だったか。人が意思として存在するなら、すべての条件は本質的に生きがたいものとして現れてくる。問題は、この意思の普遍性と生きがたさの普遍性であり、そこで、つまり、嗜好=オタ=至福、ではない、社会と思想と善の問題が生じる。
 という場は、ようするに、私を完全に状況に還元させる地点だ。私の存在は完全に大衆でありその原像を組み込むかたちで状況と一体化し、そしてそこで意思だけが知として生きがたさと問い出すとき、そこにだけしか、思想なんてものはありえないし、そこで生きがたさとして出会う人生の運命というか必然の過程でしか、「弱者」なんてものは出てこない。
 ある時、ある「私」は最愛の人を不可解な事故で失う。それはある意味で、古典的な意味で運命かもしれない。人はそうした運命を受け入れるしかないかもしれない。だが、その事故の不可解さに、社会の意図、が含まれていたとき、つまり、私の愛を社会が抹殺しようとするのを意思が拒絶したとき、すべての思想が始まる。
 そうした状況と「私」の関わり、あるいは関わりのなさ=大衆の原像、というものがないところに、問われるべき課題などない。
 そして、たぶん、そうした課題のもっとも大枠にあるのは、ニーチェの言うルサンチマンの問題だと思う。怨恨的な被害性というか、そのような形で、自己の意思を正当化させること絶対化させることに、ニーチェは最大の欺瞞を見た。というか、それはその人がよく生きることを不可能にさせる宿痾であるとした。
 その宿痾に向き合うことができるなら、人はよく生きられる、知は悦ばしいと、ニーチェは考えた。
 私は、率直に言えば、それを十分に受け止められるわけでもない。
 私にはそうしたメタな部分はあまりよくわからないということかもしれない。