もうちょっと書く…

 人は、知覚を瞬時に修正して生きている。というか、人は、その修正をほとんど無意識に行う。なぜなのかというと、ある種の恐怖を持っているからかもしれない。
 これは、子供のころの恐怖となにかしら関係しているように思える。
 子供のころ、たとえば、夜のトイレの扉の向こうは恐かった…そこになにがあるかわからない。あるいは、夜空の向こうが恐かった。何万光年先の光は私が100年生きようが私の死を無を射抜いているのだ。もちろん、そうした言葉は知らないが、私は恐かった。
 他者もまた恐かった。はっきり言ってしまうと、誰もが、この世界で、その「私」を愛している人は誰もいない。あるいは、愛とはそういうなにかではないのかもしれないのだが。いずれにせよ、私たち自身、あらゆる他者はそれが死者になりうる他者として見ている、そういう視線で他者を処理している。ああ、この他者も私を死者として見ているなと思う…と書くとナーバスだが神経症的に言うのではない、これは、ただ、真実だと私は考えている。だから、それの知覚は恐い。
 杞憂という言葉がある。語源は天が落ちるの恐怖したというのだが、これを世人は馬鹿馬鹿しいこととする。もちろん、ばかばかしい。しかし、人の世界の知覚のある根幹にはそうした恐怖がある。私の世代ではノストラダムスはジョークだったが、ある世代はそこにそうしたなにかを見ていた。
 ま、そうこういうわけで、この話はもっと哲学的なりに問いつめられもするのだろうが、我々はいずれにせよ、そうした恐怖が溢れ出てこないように世界を、他者を見るべく、瞬時に知覚に修正を加えている。そのことに気が付いてもいない。
 しかし、その修正に気が付くことができる。もちろん、さきのからくりと同じく恐怖との裏腹でもある。と、同時にそれは、とんでもない美との裏腹でもある。とてつもない美とは、実は、その知覚の修正をつきやぶるなにかだからだ。
 で、その意識の微細な瞬時の修正を緩めることはできる。なんと言っていいのかわからないのだが、擬似的な死の受け入れというか、地獄の知覚とも関係するか、よくわからない。が、それを緩めることはできる、と同時に、そこに圧倒的な世界と圧倒的な他者が現れる。
 なぜ人の心というものがそうなっているのかは、よくわからない。そして、その圧倒的な世界なり他者なりに向き合って人が生きていけるものでもない。