日日ノ日キ ■ [Text]子供の頃は空中浮遊できた 22:25

 これはいい話だな。実話かはさておくとして。ふと、大学の時の、L先生のことを思い出した。奥さんがTMをやっていて浮くというのだ。すーっと。ほんとかねと思ったが、彼は本気だった。よくわからないが、彼にはなにか大きな心の傷があるように感じた。なぜ日本を、ある意味で愛していたのか、それとなにか関係しているようにも思えた。彼が死んだ話を数年前に聞いた。
 小林秀雄が「信じること…」だったか、文春文庫の「考へるヒント」の3だかに収録されている講演で柳田国男の幼いころの神秘体験について触れていた。こうした感性は、私にもあったのだが、よく覚えていない。思い出したくないという強い抑圧が心にある。
 神秘的な体験というのは、あまりない。いわゆる金縛りのようなものは多かったというか、ま、それもそんなものだろう。入眠幻想みたいなので、なんどか、首を絞められる手のようなものを見たが、ありがちな幻想だ。一度、多武峰でやや奇妙な体験があり、自分に前世というものがあるなら、そういうことかとも思ったが、時を経るに、体験よりも意味が重要に思えた。ああ、そういえば、天啓のようなものが2度あった。イエスが答えるといったものである。今でも覚えているが、アニメのように日本語で答えたのだ。そして、その答えの10年後にまた同じ声のトーンで同じテーマの天啓のようなものがあった。そちらは忘れた。
 こうした人の心のなかに起こる、ある種、原始的な心性というのは、意識の持ちようでよく遭遇するようになるのだろう。芹沢光治良の晩年の小説のあれで、彼が木々と語らうというのがあり、やべーなこれと思ったが、内地に戻り、内地の木々に親密な感情をもって対峙していると、なるほど木々は語る…ように思える。この時の心の持ち方、自我のありかた、言葉のありかたとこうしたものは相関しているのだろう。
 そういえば、若い頃、家の宗教ではなく、クリスチャンになった人に、なぜ信じられたのかとしつこく聞いたことがあった。意外に思えたのだが、そういう人にはある種の奇跡の体験のコアのようなものがあるということだった。そうか、とも思った。
 話はまとまらないが、というか、まとまるわけでもないのだが、大森荘蔵の哲学などを読み、まさに、彼のあの奇怪な哲学の世界に嵌るというか、常人の世界ががらがらと壊れていくなかで、彼の哲学とは違うのだが、私は、今この時の知覚をもって、素直に開く、という、ある感触というか、それをもった。人は意外に世界や対人の場で、理性なり戦略なりというかいろいろ枠をはめて接している。しかし、それをすこーんとはずすと、そこに万物有情とでもいうか、奇妙に、それはそのままでありながら、ある種神秘的とも言える変なというか素直な世界が現れる。神秘的なものではない。が、木々は語り、天使は囁き、人の心のなかの悲しみが直に見えるといったたぐいで、そう言葉で描写すれば奇怪極まる。
 この心性というかこの素直な世界認識というのは、ある意味ではアニミズム的なものだろうし、いわゆる神話なりアニミズムというのは、そうした認識というか存在のあり方の比喩ではあるのだろう。
 と、つらつら、公開めいた日記に書く。書けばなんだか、江原啓之みたいでもある。ま、全然そうではないのだが。