「考えるヒント」より。

 人生を簡単に考えてみても、人生は簡単にはならない。道徳の問題を考えるに際し、良心の問題を除外し得ても、良心とは問題ではなく、事実なのであるから、彼が意識するとしないとを問わず、彼の心のうちに止まるであろう。例えば、あの男はスパイだと聞いて、私達は何故一種の嫌悪の情を覚えるのだろうか。スパイのうちにも正義の士があって、弁解するだろう。「社会の正義の為なら、嘘もつこう、仮面もかぶろう。(中略)」何やらおかしい、何かが間違っている。人間は、彼のようには生きられる筈はあるまい。(中略)感情の呟く言葉は、その種の不明瞭な言葉には相違なかろうが、良心の言葉とはそういうものなのではあるまいか。
 良心ははっきりと命令もしないし、強制もしない。本居宣長が、見破っていたように、恐らく、良心とは、理智ではなく情なのである。彼は、人生を考えるただ一つの確実な手がかりとして、内的に経験される人間の「実情」というものを選んだ。では、何故、彼は、この貴重なものを、敢て、「はかなく女々しき」ものと呼んだのだか。それは、個人の「感慨」のうちにしか生きられず、組織化され、社会された力となる事ができないからだ。社会の通念の力と結び、男らしい正義面などできなからだ。(中略)
 だから、私達は皆ひそかにひとり悩むのだ。それも、悩むとは、自己を審くものは自分だという厄介な意識そのものだから。公然と悩む事が出来る者は、偽善者だけであろう。(後略)