哲学・思想とか

 に、ふと気が付くとかなり関心を失っている。時折、大森荘蔵を読み返したり、中島義道の雑文などをけけけと思って読むくらいか。竹田青嗣ヘーゲル論には最近関心あるか、ま、そのくらい。
 なぜだろう? 単にある時代が自分のなかで終わっているだけか?
 脳と認識の問題については…このあたりは、もしかすると多分に誤解されているかもしれないが、自分はけっこう脳学問寄りだったわけで、だから、かえって安易な疑似認識論みたいのを避けたいのだが、それほど不可知論的ではない。
 なんかすごい杜撰な言い方だが、脳の問題は時間と記憶の問題であり、そのあたりは、基本的にベルクソンの領域に収まっているように思う。そして、疑似解のように最近は言われているようだが、どうも、大森荘蔵の批判はきちんと的を射ているようでもある。
 そして、それは、ごく単純に道元的な問題でもある。つまり、存在論的には有時として、「ただいま」のありかたとして有る。そして、有時を離れる=万法我に有らざる=>無。だが、我々の活動すべて仏道、というか、別に仏はどうでもいいが、生活世界的には生滅という運動はある。
 ふと思ったのだが、運動は、つまりベルクソンのいう持続(デュレ)というのは、道元の有時でもある…どうもそのあたりの道元の意図を自分がまだ掴んでいないか。
 中島が縷説するように、あるいは、ダメットだったか、時間というのは、存在しない。未来と過去はない。それがあるのは、大森のいうように語り存在というか、記憶の問題であり、記憶とはつまり「我」の定義だ。「我」は現在の知覚作用のその現前のように思われるが、記憶を抜かれた無名者にとっての、つまり、一般者の知覚というのは、実はない、のか?
 知覚は常に認知を孕む、とも言えない。我々の知覚は…
 うーむ。思考に疲れたからストップ。
 道元の言いたいのは、その知覚と、記憶=認識の遮断にあるのだろうが…。