水上勉の死

 朝、日記を開くと当然ながら昨日の日記が開いていて、そのトップに水上勉の死についてのメモがあり、昨日の私は「ということ」とかふざけたコメントをつけている。水上勉について、確かに、あまり追悼の意を覚えるものではない。ただ、正直にいうとあまり解けていない思いがある。
 うまく言えないのだが、死亡の記事には彼の老いた写真があり、それは当然、本当に老いていた。そして、あまり美しい老人ではない。率直に言えば、人というのは後半生の生き様で美しい老人になるのではないかと思うことがある。もちろん、それは自分への嫌悪と恐怖でもあり、それを私は水上に投げてしまっていた。フェアではない。
 彼は、一休をよく語った。私は彼の一休など認めない。彼にはいつもポーズがあった。私の直感では女たらしの相だ。私は女たらしの相のある男をまるで信じない。彼は晩年パソコンなどもやっていて、それはさらに私の嫌悪を深めさせた。
 しかし、そういう思いは本当にフェアではない。そう思う。水上はその意味で、私を映す鏡の一つではあったのだろう。という意味で、哀悼の意を、少し、正直に、思う。