ブログ

 ブログを始めるとき、別に匿名である必要はないと思ったし、かつての暴れ具合を知る人間なら、これはと思うようにしていた。たぶん、そして知って、黙っているのではないか、あるいは、そうでもないか。
 ネットと匿名性については私は、正直に言うと、関心はない。名前を出せば、私という社会的なあり方と思索の表現に一貫性が生まれるような社会的な幻想を強いるのだろうと思う。それはちょうど、たとえば、「私は在日一世です」というコメントのようなものだ。その人を知っているという真偽と、その語りから信じ得る真偽の二つがある。私は、後者を信じるという意味で、私の匿名性のほうが、もし読み人がいるなら、わかりやすいかとも思った。
 率直にいうとよくわからない。私をよく知る人と、さりげなくコメントを交わすが、やはり私の甘えのような思いは入る。それはちょうど私の社会存在を取り巻く人のように。そして、それはだから、私の障害のことも知っているし、知っていることは彼らが私を愛していることでもある。それを私は、ネットの読者(という言い方はおこがましいが)に求めてしまうのではないか。
 ってなことを昨日は思った。