親を捨てて一人で生きるということ

 言うにためらうものがあるのだが、人はどっかで親を捨てて生きなくちゃだめだよと思う。その罪の意識のようなものはぬぐい去れなくなるだろうが。
 本来なら、親に関心を失っていくのがいいのだ。
 と、かく書きながら、今は、私はある意味で親をケアしているか。
 うまくいえないな。
 性的な自立でもあるのだが…それはたぶん、男女とも30代になってのものだろう。
 「恋愛」や「結婚」で覆われているが、人はたぶん、性的に自立しないといけない。という言い方はつたないが、自分の性の欲望を引き受けなくてはいけない。これが、たぶん、ものすごい人間のポテンシャリティを動かす。神秘的に言たくはないが、やがて性を越えた愛の衝動というかエネルギーを生み出す。生きる物を愛おしむ強い衝動を生み出す。
 このあたり、「空」の仏教はあまり語っていない。「空」のなかには、いわゆる仏教でいう「悲」ではない、悲しみの凝視とそれに滅していく身体の感覚がある。この世の絶望と悲嘆に焼かれるのだ。もう一つ密教は稚拙に先の性の自立を語る。いや、そうした仏教の秘密は…。
 オウムを支える人たちは、女性たちが少なくない。彼女たちは、性の自立のとば口で耐えられなくなったのだろうと思う。修業なり善行なりで自己を加算してしまう。しかし、加算の果てに「火」があるわけでもない。
 その「火」を人生のなかでいくにんかは見る。
 もちろん、私のこういう言い方はちょっと向こうの人だな。