極東ブログ追記

 状況の動きにあわせて追記した。本来なら、スーダンにも触れたいところだが。こっちはま、メモ。
 蒋彦永医師の状況だが、解放された。ワシントンポストにもあったが、インターネットの力はあったと思う。日本人はどれだけ寄与できたか。
 普天間飛行場の代替基地案が最悪のストーリーに向かっている。辺野古の沖に、関空より巨大なものを日本政府は建設しようとしているのだ。沖縄県人はこれを許すとは思えない。あるいは、そうしてヤンバルを見捨てたとき、沖縄は終わる。これだけの規模のものを作るということは完全な基地の固定化だ。
 余談だが、このところ、極東ブログの話は、誰がこんなもの読むんかいな的なネタだが、固定のPVはある。あまり気負うとこちらがつぶれるが、日本のブログを今ささえることが大切なんじゃないか、そういう局面にあるんじゃないかという気がする。さっさと、意見の水準で、極東ブログなんてつまらんという世界になって俺はロートルになるのが本当はよいのだ。
 しかし、現状は、ちょっと暗いなと思う。
 左翼たちはすでにオフィシャルな政治から退いた。プロ市民という兵士たちは、非常にインターネットを警戒している。ある意味、絶対的な技術力の量差が大きいと思う。
 問題は、こんなことを言うと失笑される向きもあるが、一種のプチナショナルなブログというか意見だ。ジェンキンズ問題をSACOより重視してしまう政治・軍事センス、それが、これから深刻な問題になるだろう。
 小林よしのり本人の活動を私は評価しないではない。しかし、それが当然ながら、あのメディア(漫画・書籍)のなかでは、ある程度の余剰の購買力を期待させるために、思想はどうしても単純化する。それはしかたがないことだが、ネットのメディアがその受け皿的な単純性を広げているとしたら、やはり、問題だろう。
 うまく言えてないが、思想の右も左も、また、中道やや左、そんなものはどうでもいいのだ。問題は、世界の水準で日本の市民が声をあげられる思想的な胆力なのだ。
 こういうのも偉そうだが、ニューヨークタイスやワシントンポストのオピニオンの水準の見識で日本が問えなくてはいけない。
 もちろん、日本には知性の高い人も、知識のある人もいる。しかし、そういうことではないのだというところから、ブログが少し歴史に亀裂を見せるだろうか。
 なにも高度な知性を必要とするのではない、スーダンの問題を忘れず、ジェンキンズ問題を相対化するセンスでもいい。ジャーナリズムの基本のセンス、マスメディアへの基本的な警戒心、そういうあるセンスなんだと思うのだが。