小林秀雄と山本七平

 をときまた、ぱらぱらと読み返す。彼らが力をもって文章を書いていた歳に自分がなるにつれて、自分の矮小さを思うが、それよりも、ものを考えるというあるスタンスが昔よりわかる。結論はどうでもいい。どう考えるか、考えるということはどういうことなのか、彼らの文章には不思議な息づかいがある。森有正吉本隆明にもあるが、なんというのかあるセンスの違いだ。
 小林も山本も、なにか、物の前にじっと立ちつくしてまず見つめる人だと思う。そして、その見ている自分のあり方を思惟のなかに織り込んでいく。対象がある圧倒性をもつのは、それを見つめる自分の側の意識が問われるからだ。見て、観察して、対象からなにかを引き出すということではないのだ。
 時代は変わる。
 私は私より若い世代に、ま、いい加減な放言を散らしているが、実際は、そんなことはどうでもいいと思う。ただ、個々の知識より、生き様に化す知性というものの、それ自体の特殊な倫理性のようなものが、伝わっていくのだろうか。
 倫理が先にあるのではない。倫理と感性が先行すれば今井君ができるだけだ。知性と感性でもお利口さんができるだけだ。
 そうではなく、考えることを強いるなにかと向き合っていく知性の、その生き様に陰を落とす倫理性のようなものが、一人の人間を形作るということだ。
 その、ある意味では滑稽な結末が宣長でもあったのだろう。宣長の葬式は異様なものだ。そしてなによりその異様さを実は宣長も知っていた。しかし、そういう倫理の北限にあることを形に描く、つまり、死の形にするほかはなかった。小林はよく読み取っていた。小林はそして、その葬式も他界も描きはしない。しかし、率直に宣長のような世界を受けれていただろう。森有正宣長について、その信仰の形として描いていた。
 山本にしてみれば、神がなぜ彼にヨセフスを課したのか、アブラハムを課したのか、それ自体の了解が信仰であって、それ意外に口外する信仰などなかったことだろう。
 人の人生とはなんだろう。もちろん、答えなどないし、人それぞれに課せられた生き様があるばかりだ。だが…。