ブログを続けるということ

 当たり前のことだが、ブログを続けていて、まったく反応がないというのはさみしいものだ、ととりあえず言っていい。だが、これも当然ながら、反応というのは予期したものではない。というか、ある主張をした場合にその主張の意味をより社会性に高める反応があればいいのだがとつい思う。しかし、実際はそうでもない。私のブログのありかたがいけないという面もあるだろうが、なにか、こういうと陳腐だが日本の知の風土は関係しているような気がする。
 おかしな言い方だが、自分は孤立して生きてきた。いつも孤独だった。実生活では後半生思わぬ逆転があった(神に感謝しよう)。しかし、精神面での孤立・孤独というのは、それとはまったく別だ。というか、そこになにか、勘違いしたのかもしれないなと思う。
 野沢尚が死んだ。享年44歳。TV系なので知らないわけではないが、深く読み込むというものでもない。知らないといっていいくらいだ。だが、ある知的な仕事をして44歳で自殺する男というのはそれだけで、ある了解のようなものがある。ひとつには、知の行き詰まり感だろう。
 だが、知の行き詰まりが生死をかけるというのは、本当は、と言うのは安直だが、その人間が抱えていた孤立と孤独というものだろう。孤立と孤独が知としての存在に出ていなければ、そこに生死をかける行き詰まりはない、だろう。
 うまく言えないが、そして、こんなことをここに書くべきではないのだが、ブログなどを見ていても頭のいい人間は多いが、孤立と孤独という内面性をにじませるというのはそれほどは見かけないように思う。それが増えればいいとは思わないし、こんなことを私がかけば、相応のうんこが飛んでくるのがオチだろう。