essa ネットというものはヴェーバーの言う社会科学の対象には入らないのではないか?
端的に難しいなと思う。
とりあえず、ネットが起こす文化的な現象、たとえば、プロテスタンティズムが起こすような現象、と考えれば、対象にならないわけではないし、ネットに参加する人間の理念型が考えられないわけではないというか、劣悪な理念型(モデル)がいろいろある。
と、考えれば、具体的な現象(なにを有意義な現象とするかは学者の主観に委ねられそうだ)が、どのような理念型(ネットピープル)で説明されるか? となるだろうか。話簡単にしすぎ? でも、大筋でそうだろう。
これが複雑なのは、以上のような単純なまとめは、ネットが引き起こす分化現象を単一の、決まり切ったブラックボックスにしているからで、実際のネットの現象は、ネットの構造によって生み出された側面がある。端的な話、杜撰な話でもあるが、インターネットというネット構造は、多分に非集約的なものであり、たとえば、Winnyのようなありかたを本質的に含む面がある。
つまり、ネット現象と人々(理念型)という二項が問題というより、ネットに込められた思想・技術が人々の理念型を生み出す潜在性をもっているからだろう。
ま、そのくらいは言えそうだ。
その先は…うーむ。
しかも、インターネットがWinnyのあり方を含むといっても、説得性は低いだろう。