北鮮の核はなんのためにあるのか?

 昨日コメントで山中さんから「アメリカは何百発も核爆弾を持っていて、それを北朝鮮に向けている。短絡的にたとえると、機関銃を相手に向けながら「拳銃を捨てろ」と言ってるようなもので、北朝鮮の核開発と同じくらいアメリカの核保有を問題にすべきだと私は思うんです。」と指摘を受けた。
 これには同コメント欄でその場の回答を書いた。「1,米国の核は実際には利用できない。2,自由主義諸国間では戦争事体が自国内のフィードバックがきくために発生しにくい、と。つまり、そうした現実から考えて、つまり、現実から核を減らすという方向で考える、というのが、取りあえず、現状の政治学者たちの前提だろうと思われます」と。
 少し別の角度で言い忘れたことがあった。
 北鮮の核はなんのためにあるのか?
 端的に言えば、北朝鮮の人民を抑圧するためにある。シモーヌ・ヴェイユの公理と言ってもいいだろう。冷戦的構造の戦力とは、国家に恐怖をもって人民を封じ込め、国家の名のもとに死を命じるためのものだ。
 以前も書いたが我々自由主義国家の所属民は今世紀に第二のアウシュビッツがあるのを放置しているという罪を負っているのかもしれない。
 米国の核は、米国民が本気なら解除できる。だとすれば、現状、反核勢力は米国民に解き明かす努力をすべきだ。
 が、米国の核下にある日本人の発言はナンセンスだ。
 であれば、日本は米国の核下から出るべきだろう。が、ここで、核下を出ればどうなるか、あるいは、どうなりうるかは、歴史が諭している。理論でも理念でもない。歴史を見つめなくてはならない。
 反面、北鮮の核を廃棄できるのは、その人民ではない。