切隊 ホリプロが自由を語っている

 これはすげー、名文だな。そして、よくわかるなと思う。

 (20分経過)うーん、自分の人生の節目を思い出しつつ書いているのだが、受験にせよ留学にせよ相場にせよ転職にせよ起業にせよ、何か自分でイニシアチブを取った記憶がない。(10分経過)他に人がいなかったとか、器用そうだからとか、そういう理由でお膳立てされて、そのなかで最適化して巧く切り抜けてきた人生でしかないような気がする。

 この感覚は不思議なものだろう。私自身もあるが、私の場合は、切り抜けるのをなんどかやめた。才能や性分の違いでもあるのだろう。
 山本一郎のこの感性は、山本七平に似ている、って、山本づくしというわけではないが、七平もそういう感慨を深く持っていた。彼の場合はさらに人生は苛酷であり、そのことが信仰を意味づけることになった。が、その信仰を語ることはなかった。という言い方は変だが、ある意味七平は凡庸だったと思う。というか、おそらく「性」の実現性と頭の良さというのがなにかこの手の人たちの人生の秘密かもしれない、と、言うとちょっと違うのだが。性欲とかじゃないからな。本音のところで女に鬼畜になれないというか、どっかで最後の女を持っている人かもしれないなと思う。それに比べれば、俺は鬼畜に近いかもしれない。話がそれまくった。

 社会人ともなれば、意欲が湧かなくても一定以上のクオリティに仕上げるのがプロというものだと思うので、多少勤労態度に問題があってもアウトプットさえ出てくれば雇うことが多い。というか、私も偏頭痛持ちでいろんな時限爆弾を抱えているため仕事ができるときにできる限り仕事を挙げないとならないという制約があるから、その手の人に理解があるだけだが。それでも、一般的な会社で言うコアタイム、就業時間というものをコンスタントに守る”才能”や”習慣”を持てないが故に一般的な会社で弾かれる人間も多いはずだ。私とか。そういう人が、やむにやまれずフリーランスになって、誰からも仕事のケアをしてもらえずに才能を発揮する機会に恵まれない、という話は良く聞くし、もったいないと思う。

 これはよくわかる。と、つらつら思い出すに、この感慨を持ったのは私も30代半ばか。しかし、実際に自分の限界を抱え込むようになったのは40歳過ぎてからだ。それがなければ、どっかの企業でぶいぶい言っていたかもしれない。しかし、さらに47歳にもなってみると、たとえいくばくか自分に才というものがあるにせよ、それを社会に活かすばかりが能でもなかろうとは思う。というか、オカルトじみた意味ではなく、人には「霊」というか魂というか、ある。これは「欲」より強いのかもしれない。ま、ちょっと変な話だが。

このあたり、かねがね思うのだが、何かを考えたりモノを作るときに絶対的に必要なのは友達でも自由でもなく孤独なんじゃないか。

 ある意味で言葉にすればそれは凡庸な見解でもあるのだが、その孤独は、ある種、外在性だ。孤独は自分で見いだすものでもないのだろう。
 と、いろいろ思うことはある。あまり書くと自分の矮小さに自己嫌悪してきそうだが、ま、私的な日記でもあるし、な。