散人先生 視点:日本異質論にどう対処するか。小泉首相は「鹿鳴館」的対応に終始しているのではないか?

 散人先生の意見はいい意味でも悪い意味でもわかりやすい。が、その発想の根は、失礼な言い方だが、教養というより、先生の人生の経験と覚悟からくるのだろう。これには、当方などお呼びもしないと思う。というあたりを、この問題提起にも感じる。

もう一つの対応は、「文化相対主義」の主張である。文化が違えば考え方も違う。それをアメリカ人は許容しなければならない。尊重してほしいというもの。この議論は60年代リベラルには相当有効であったと思う。彼等はレビストロースの文化相対主義の洗礼を受けているからだ。しかしながら、最近のネオコン連中はこの文化相対主義を否定することから彼等の哲学を構成しているのだから、こんなことを言っても「世界にはよい価値観と悪い価値観とがある、悪い価値観は敵だ」と否定され、文化相対主義なぞは古くさい概念だと一蹴されることになるのである。

 思想的に見れば、これはたぶん、話が逆なのだ。文化相対主義というものが原理的に崩壊したから、ネオコンが出てくるのだ。ある意味単純な話で、文化相対主義なんていうのが言えるのは、スエズを英国が握っていたときまでだ。あるいは、アルジェリアをフランスが握っていたときとちょっと皮肉もいいかもしれない。
 フランスがライシテを徹底させるのは、実際には、ネオコンと同じではないだろうか。結局のところ、今日の文化相対主義とは、つまるところ、イスラムの問題だ。それを覆うように、文化相対主義を出しても、今日的な意味はない。