毎日新聞社説 社説:原発工程表 より具体的評価を示せ - 毎日jp(毎日新聞)

 工程表は「冷温停止」までに半年から9カ月との見通しを示した。しかし、中身をみればこれで済むとは思えない。早くても1年はかかるとみるのが現実的だろう。
 1、3号機ではまず、原子炉格納容器を圧力容器ごと「水漬け」にするというが、格納容器に損傷があれば外に漏れてしまう。水漬けは、事故対策として行われたことのない手法でもある。実施にあたっては、格納容器の強度も十分に確認しなくてはならない。
 たとえ、水漬けがうまくいっても、それだけで冷温停止は実現できない。閉じたループで水を循環させながら、核燃料の熱を捨て続ける仕組みがいる。
 2号機では格納容器の損傷がほぼ確実で、さらなる難航は避けられない。まず、損傷をふさぐ対策が立てられているが、その前に周囲の放射線量を下げなければならない。ふさぐ作業が可能なのかどうかもわからない。熱を捨て続けるための新たな装置を設置するにしても、予想外の障害がありうる。
 東電はこうした個々の対策について、他の方法との比較もしつつ、もっと具体的な評価をし、公表してほしい。その前提として欠かせないのは原子炉や配管などの損傷具合だ。

 まあ、そういうこと。

 これに限らず、原発関連の情報は不足している。発電所から漏れ続けている放射性物質の量もわからない。工程表では3カ月程度で放射線モニタリングを拡大・充実するというが、もっと迅速に行い、情報をしっかり出していくべきだ。そうでなければ、住民が生活方針を立てるのに困る。

 核種の情報ないのかな。れいのcl38は測定ミスでした、とか出てこないのだろうか。ミスだろうという憶測だけが走っている状態なのだが。

朝日新聞社説 原発工程表―これ以上悪くせず前へ : asahi.com(朝日新聞社):社説

 こうしたなかでの収束作戦である。なによりも強く求められているのは、これ以上悪い状態にしない、ということだ。

 そこはあれかな、「炉への伝言」かな。

 まず備えるべきは、不測の出来事だ。とりわけ怖いのは、先日の大きな余震のときのように外部電源が途絶え、注水が止まることである。
 工程表も余震や落雷などのリスクに触れ、外部電源系の補強を考えているようだ。この対策は急務といえよう。

 いやこれでしょ⇒NEWSポストセブン|米放射能等対処専門部隊「CBIRF」 福島へは行っていない
 社説に戻って。

 さらに、放射能源を封じなくてはならないのは1〜4号機のすべてで、これらの作業を同時に進めなくてはならない。
 東電や原子炉メーカー、関連会社の人たちだけでは、とても追いつかないかもしれない。
 応援を含め、要員をどうやって確保するか。一線で働く人たちの健康をどう守っていくか。
 政府も、この工程表を受け入れる以上は責任が重い。

 じゃなくて、朝日新聞がこの工程表を評価してごらんなさいな。泣けてきて、暢気な社説書いてられなくなるよ。
 
追記
 ⇒時事ドットコム:米専門部隊が帰国へ=原発事故、危機回避と判断
 ということで、CBIRFは来週帰国。ということで、米国としても、最悪の事態の想定が終わった模様。
 まあ、本来なら、日本にそういう部隊があるべきなんだけど。

ユーミンの新アルバムが出ていた

 

cover
Road Show(Amazonオリジナル・クリアファイル(チケットサイズ)特典付き): 松任谷由実: 音楽
 いつもはCDで買うのだけど、今回はiTMSで好きな曲だけ買った。
 「今すぐレイチェル」とかサビはさすがだなと思うけど、曲全体の構想はちょっと受け付けないというか古い曲のようにも思う。
 「ダンスのように抱き寄せたい」はさすがの絶唱。アルバム版のほうが声質がよいように思えた。総じて、声はだいぶ戻した感じがした、ユーミン。というか、これから、新しい声の時代になるのだろう、それなりに。歌唱もちょっと変わっているところがある。
 「ひとつの恋が終るとき」はすごい曲だった。

前も見えない雨がそれぞれの道照らしてた
駅へ送っていくよ、最終電車いってしまう前に
 
ハンドルの向こうに続く君のいない人生へと急ぐよ、このまま
 
君は傘の雫と短いため息ふっと残し振り返りもしないで
すぐ階段に消えていくのだろう
 
トレンチの背中を伸ばし違う人に見えたならば
涙に滲んでぼやけて流れるけれど
 
強くなるもっと強くなれば忘れずにいられる
つらくてもきっと後になればやるせなく思える

 最初聞いたときに強い情感のなかにある混乱みたいのがあって、歌詞を追うと、運転手とトレンチの人物の男女の関係に考えこまされた。運転は女で、トレンチは男なのだろう。雨の深夜に同棲の家を捨てていくということなのだが、女にとって、今は、まだ別れる前の男といる時間で、しかし、別れたときの男はその別れの時間のなかで、違う人に見えてくるに違いない。
 昔のユーミンなら自分と恋が至上であるか、特定の誰かを思っている自分が至上であったが、ここではむしろ、自分が自分であろうとして、男との恋を忘れまいとしている。
 自分が自分であろうとしている女というのは、女がよくそう語るよりなにか異質なもので、私はそれを信じたことはない。だが、この曲聴きながら、そうでもないなあ。男にはまったくわからないつらさというのがあるものだなと思う、というか、あたりまえだろ馬鹿とか言われそうだが、失恋というのは、個別の問題でなく、恋そのものを否定していかないと男は生きていけないというのはあり、そこはまた女には通じないところ。