今日の大手紙社説
党首討論が話題だが特に言及すべきことはないように思う。
重要なのは大田弘子さんの指摘ではないか。
⇒【正論】政策研究大学院大学副学長・大田弘子 対立軸のない与野党の経済政策 - MSN産経ニュース
そもそも、予算の背景にある経済・財政政策の考え方において、与野党に決定的な対立軸がないことが、大きな理由だと、私は考えている。
自民党政権と民主党政権に違いがあるとすれば、財源のなさを予算の制約条件にするかどうかである。今回の予算案は、子ども手当などの恒常的な歳出についてすら、財源の目途が立たないまま、“埋蔵金”という一回限りの収入に頼った。その後も、歳出を増やす話ばかりが出てくる。
だから、「埋蔵金に頼れない再来年度の予算はどうするのか」という追及なら、自民党もおおいにできるだろう。しかし、来年度予算の歳出構造を本気で批判するだけの構えは、今の自民党にはない。
予算案のもうひとつの大問題は、成長への政策が組み込まれていないことだ。昨年末に成長戦略が出てきたことは前進だが、予算案より後になったし、10年も先の目標値だけで、具体策は6月になるという。
その意味で問題は民主党にあるのではなく、経済政策において民主党と本格的に対立する政党がないというところに、現在の日本政治と日本経済の不幸がある。
曇り・雪は積もっている
銀世界という感じだ。昨晩は寝付かれなかった。さして苦痛でもなく、音楽を聴くでもなく、じっと暗闇で過ごしながら、死というものを考えていた。死の恐怖というのと、死の思いは異なり、後者には恐怖はない。ただ、死は思えば思うほど不条理なものとしてしか現れない。吉本が死は別のものであるとしていたのもわからないではない。別というのは、人生の総括なり人生によって意味づけられるなにかではないということだ。先日のブルータスでは、彼は死の恐怖は老いて変わるとも言っていた。私も、そういうふうに自然性のなかで死を迎えたいものだと思いつつ、やはり、不条理なものにぶちあたる。不条理は、英語でいえば、absurdityである。対応するフランス語の語感はわからないが、似た感じはあるだろうし、カミュ自身のエッセーでも強調はされている、つまり、愚かさとおかしさだ。なんでこんなことになってしまったのかという異質な状況だ。カミュは哲学者ではなかったが、その実存のとらえ方は、サルトルより優れているし、また後の構造主義者やポストモダン思想より、acuteなものを感じる。カミュ自身はそれを情熱やヒューマニズムに置き換えようと努力したし、彼のアフリカ的な情熱がそうさせたともいえるだろうが、彼もまたabsurdityのなかに飲まれて死んだ。