曇り・雪は積もっている

 銀世界という感じだ。昨晩は寝付かれなかった。さして苦痛でもなく、音楽を聴くでもなく、じっと暗闇で過ごしながら、死というものを考えていた。死の恐怖というのと、死の思いは異なり、後者には恐怖はない。ただ、死は思えば思うほど不条理なものとしてしか現れない。吉本が死は別のものであるとしていたのもわからないではない。別というのは、人生の総括なり人生によって意味づけられるなにかではないということだ。先日のブルータスでは、彼は死の恐怖は老いて変わるとも言っていた。私も、そういうふうに自然性のなかで死を迎えたいものだと思いつつ、やはり、不条理なものにぶちあたる。不条理は、英語でいえば、absurdityである。対応するフランス語の語感はわからないが、似た感じはあるだろうし、カミュ自身のエッセーでも強調はされている、つまり、愚かさとおかしさだ。なんでこんなことになってしまったのかという異質な状況だ。カミュは哲学者ではなかったが、その実存のとらえ方は、サルトルより優れているし、また後の構造主義者やポストモダン思想より、acuteなものを感じる。カミュ自身はそれを情熱やヒューマニズムに置き換えようと努力したし、彼のアフリカ的な情熱がそうさせたともいえるだろうが、彼もまたabsurdityのなかに飲まれて死んだ。