日経社説 日ロは新たな決意で交渉を

 日ソ共同宣言は戦後の両国関係を規定した重要文書である。領土問題についてはソ連が歯舞、色丹の二島を日本に引き渡すことを約束、しかしその時期は平和条約が結ばれた後とすると記している。

 これはファクト。

 今はそうした硬直的な姿勢は取っていない。プーチン大統領は宣言の有効性を認める。だが、宣言には二島を引き渡すとしか書かれていないとして択捉、国後を含む四島の返還には応じようとしない。

 これはファクトと解釈。

 だが、その見解は一方的すぎる。共同宣言には国交回復後も「平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する」とのくだりがある。仮に日本が歯舞、色丹の二島の引き渡しですべては決着すると考えていたなら、平和条約交渉を継続する必要などなかったはずだ。

 これは「仮に日本が歯舞、色丹の二島の引き渡しですべては決着すると考えていたなら」という変な仮説に基づいた議論。
 参考まで。
 ⇒極東ブログ: [書評]雷のち晴れ(アレクサンドル・パノフ)

産経社説 日ソ国交回復50年 四島を安倍外交の要に 露は法と正義に立ち返れ

 フルシチョフ、河野、鳩山、ダレス……あの時代の経緯をきちんとフォローしてからこういう主張をしてもらいたものだとも思うが、そしてなにより冷戦と沖縄。冷戦の構図のなかで沖縄返還とバーターだった。

毎日社説 首相官邸強化 「形」より何をするかが大事

 やはり、補佐官は黒衣に徹し、文字通り首相を補佐する一方、各省庁や与党とのパイプ役となるのが現実的だと思われる。

 ちょっと笑う、むふふ、くらい。

読売社説 [職務発明判決]「研究者を満足させる報奨とは」

 この話題も関心を失った。
 なんとなく思うのはカネになる研究を持つ研究者は大企業にいないでベンチャーなりするべきではないか、というか、そういう社会にすべきで、読売の主張も間違っているとは思わないが、そういう主張もありますか、というだけで、しかし、バックラッシュでしょう。

朝日社説 命令放送 NHKの自立こそ大切だ

 この問題がよくわからない。ポイントは「放送」全般ではなく、「NHKの短波ラジオ国際放送」という点ではないのか。だからまず、「NHKの短波ラジオ国際放送」の実態や歴史、使命が論じられなくてはならないと思うのだが、が、しかし、「NHKの短波ラジオ国際放送」だって放送だから云々という議論になるのだろう。まあ、そのあたりで、引く。

野暮なツッコミと思わんで欲しいのだけど

 南無三江⇒■[妄念]蠕動之類 : 南無の日記

公園のベンチや駅の階段の踊り場で寝るのも、これ人生。死すれば浄土の門が開く。そういうことで、ま、酒飲んで寝ますわ。

 もちろん、放言だろうし、すでに妙好人かもの南無三だのだろうけど。
 親鸞は、吉本が奇妙にこだわっているように、往生というか来世に奇妙な階位を想定している。もちろん、すべて往生疑いなしとしても。
 この階位をどう解釈するか、あるいは否定するかなのだが。
 私は、大筋ではこう考えている。
 「とても地獄は、一定、住処ぞかし」の地獄が極楽を指しているのではないか、と。
 要諦は「とても」にある。
 人がその必然の道を歩むとき、この世は地獄として出現する。
 大衆が、その原像がその生の必然を歩むとき、つまり、まぐわって子をなして苦しんで=地獄、くたばる。この生のありかたを全的に肯定するとき、知識人のあり方はまさにその地獄の等価となる道こそが必然の思想の倫理=救済、として出現するということだ、と。
 知識人が、彼または彼女が、地獄でうっつぷしていら(そう生きていたら往相)、彼または彼女は、幸せだった、と。極楽にいるのだと。彼または彼女の人生は、生きる我々のためにあったのだと……それが……還相ということなのだ、と。
 ここで、悪と(市民社会と限らずだが)この世はどういうふうにその意味合いを変えるだろうか?
 彼または彼女が地獄の道を歩むのはそれが必然であるというとき、それは「善」であろうか?
 大衆にとって地獄往生疑いなしは善でも悪でもない。
 だが、世界はかならずそこにある倫理=善を内包し、それゆえにここに地獄を現前化させているというなら、彼または彼女の人生の必然意味はどうなるだろうか。
 「善」はその実存を地獄に導く必然を形成するだろうか。
 そうではないだろう。彼または彼女を地獄に赴かせる「善」とは、この世の「善」と本質的に対立せざるをえない。そのようなある内的な確信であり、それに生を引き換えるにたるなにかであるがゆえに、それは極楽往生疑いのないものなのではないか。
 からんでいるわけではないので、ま。
 
追記
 まあ、こんなこと関心をもつ人はいないかもしれないが。
 私は上の考察でひとつ、しかし、大きな間違いとしているかもしれないと思った。ので、そこを補足しておきたい。
 「内的な確信であり、それに生を引き換えるにたるなにかであるがゆえに、それは極楽往生疑いのない」という点だ。
 内的な確信は、生の必然ど同義だが、それが「生を引き換えるにたるなにか」が「極楽往生疑いのない」となるとき、それが、主体の側の意識として定義されるとき、それは、もっとも大きな間違いとなる。
 これこそが「死の支配」であり、人は、己の死を所有したと思う思想であり、人々の死を所有するという思想だ。これは恐怖の思想でもある。
 そうではない。
 「生を引き換えるにたるなにか」が必然のなかに現れるとき、人は、すでに死んでいるのだ。己の生の企図というものが死滅している=他力=阿弥陀という、絶対性の他者のなかに包括されている。だから、「極楽往生疑いのない」は確信の構図ではなく、事実性の構図のなかに現れる。
 おそらく親鸞の最後の思想は、信仰というものの無化であった。「人は救われるだろうか?」「私は救われるだろうか?」それに親鸞は答えた。「知らない。」「私は知らない。」「あなたが好きなさればよいだろう。」
 人との関係性において「あなた」と呼ばれるうる私が、死を所有しようとしてあるいは極楽を、この世界を、それらを所有しようとしてそれを乗り越える企てを信仰と呼ぶなら、それへの最後の答えは、「知らない。」「あなたが好きなさればよいだろう。」という以外はない。
 人が必然のなかに生きているとき、それはそのままに絶対的な他者=阿弥陀の包括のなかにあり、それが地獄=極楽そのものであり、また、その生の様こそ利他で、そのままに菩薩の顕現である。
 少し、戻る。
 人がその必然と地獄のような極楽・極楽のような地獄を選び得ないのは、恐怖から死の支配のなかに捕獲されることであり、そんとき、死の支配を疎外化したものとして出現する「神」とは、まさに恐怖の顕現である。
 そこに「恐怖」というある根源性がある。
 その根源性を事実性として無化するものが、菩薩たちであろう。
 人は菩薩を神を阿弥陀を信じることなどできない。ただ、今生にあって菩薩に出会うのである。おそらくもし、もっとも小さい意味で正しく救済を意味つけるなら、その「よき人」との出会いだけが、おのれの人生の意味であろうし、謝恩の起源であろう。なぜその邂逅ありしか、知らぬ。南無阿弥陀仏、と。

奇妙なことに北朝鮮とは世界は騙すが国是の嘘はつかない国

 なので⇒asahi.com:「制裁決議は宣戦布告」 北朝鮮が初見解 - 国際

制裁決議により「我が国の自主権と生存権が侵害されるなら、誰であれ容赦なく無慈悲な打撃を加えるだろう」と述べた。

 けっこうマジでしょう。このマジ度が困ったものだけど。
 いずれなにか事件で可視になるだろうと思うので、その事件が些細なことであることを祈りつつ、あまり騒がぬように、と。

それはそうかもなのだが

 ⇒セくらえ管理部 - 真昼からシャセイ日記(「セックスなんてくそくらえ」管理人日記) - 翻訳と作家に関する雑感

 村上春樹は文芸翻訳家になってからつまらなくなった。いや、作家として壁にぶちあたったから翻訳をやりはじめたのかもしれない。おそらくその両方なのだろう。彼にとっての「翻訳」は、たとえば村上龍田中康夫の「経済」や「政治」にあてはまるのだろうと理解している。

 同意が半分。もっとも彼はある種の知的負荷を生活に与えるためのエクササイズというのあるだろうけど。
 半分は、小説の限界を思考することだったのでないか。
 というのは、彼の翻訳はいわゆる翻訳ではなく、現代英米作家を読むということであり、それは現代日本文学を読むということと両輪的なものだったと思う。そのあたりは以下によく出ている。

cover
若い読者のための短編小説案内: 村上 春樹
 noon75さんが万一これ読んでないなら、まあ、あまりこういう言い方は偉そうなのでしたくないのだけど、読んで味噌、これ。
 
追記
 "The Elephant Vanishes"を味わえるほど英語の能力がないのでとほほなのだが。
 そして反論ではないのだが。
 "The Elephant Vanishes"に現れる英語の春樹、あるいは、これは、ある部分、韓国語の春樹、中国語の春樹(余談だが特亜とか言われる国で春樹は正確に読まれている)でもある。ただ、それをもって、春樹のユニバーサリティではない。
 ここがとても言いづらい点なのだが。
 春樹がそのようにユニバーサルに読めるのは、米文学のユニバーサリティをよく学んだからというか、学ぶというより、ニューヨーカーたちが文化的な様式のなかで生のユニバーサルな点を浮かび上がらせる課題をつきつめたからで、その最初の試みが英語に宿った。
 そこを春樹はうまく掬い取っている。それは、概念としての獲得ではなく、作家という身体性において吸収したから成功したのであって、貶めるわけではないがその陰画が池澤夏樹だろう。もっとも彼の文学の価値やその感性の問題ではなく、あのどっかの国の大学で文学教授になりそうな部分についてだけだが。
 で。
 "The Elephant Vanishes"に現れる英語の春樹の、そのある種のユニバーサリティを支えているのは、日本語の近代小説というものなのだ。つまり、そのある奇妙な日本的な違和の根源的な問いかけであって、別に言い方をすれば、ニューヨーカーたちがみつめる生の根源生、その規定にある奇妙な文化=民族性なのだが、戦後日本人はそこを禁じ手にされてしまった。つまり、ある奇妙な文化=民族性に委ねることができない部分という課題がもたらす齟齬なのだ。ちょっと飛躍したいいかたをすれば、三島由紀夫はユニバーサルだし、そう読まれうる。だが、あれは、大きく間違った戯画というか、小説が我々(戦後日本人)の生を写しだす本質的な課題をもたらざるを得ないとすれば、間違いなのだ。
 というところで、春樹は、そこに結果的に立たされてしまった。
 そこで、春樹は、実は、三島由紀夫的なもののと、逆説としての戦後日本人の小説=第三の新人的なもの=新しい日本語、という課題を統合して出てこざるをえなかった。
 その意味で、"The Elephant Vanishes"がすばらしいとこの日本で日本人がいうためには、その逆説的な戦後日本の言語空間をどう受容するかということのほうが、難というか、前方参照的に問われている、と、私は思う。