今朝のウンココメント

 残してもいいけど、他のかたに不要な情報を強いることになるので、できるだけシンプルなブログにもしたいので、そうした情報負荷をかけるのもなんなので、結局削除した。
 で、「さてこのワシの特大のウンコ結構往けてる、とか書いてみる。」なんだけど、orz
 実名暴露攻撃(訴訟マター)とか禿罵倒(男性ホルモンの強い男は後半生禿げる)とか、その手の攻撃は、ちょっとヒネリなさすぎ。文章のパロディレベルもやっつけだよ、これじゃ。
 finalventさんをニヤリとさせるくらいの知性を見せてくださいよ。
 削除部分はこれ。実名と思われる部分は編集した。
 


ま、たまには実名行くよ、と。***だよ、てな話、どうでもよろし?反論っていうことではないが、禿でぼんやり思ったのだが、ドラッガーは20世紀における会社組織っての?ワシが好きな共産主義国家社会主義(ナチズムがその最たるもの)の両方の国家ムーブメントに対して、社会はどう組織化されるかという問題意識である意味そのあたりがカール・ポランニとか?って書くとワシいろいろ知ってるからな、と。ついてこれないよね、おまえら、とか書くとウンコ投げられる前に自分でウンコ食べちゃうぞ、と。会社というありかたを考え、よって経営というところに1980年代の終わりに、会社の経営というところから非営利によるサードセクターとワシは言うのだけど、そうした社会組織が重要になるだろうとして、ま、ソ連崩壊とともに、現在のNPOムーブメントを先駆した。ま、つまり、そこでは、経営という技術がNPO側に移っていくという点で・・・しかしテクノクラートとか第二の人生という生き方のモデリングという点でも、首尾一貫した巨大な思想家であるワシだからね、と・・・…てな話はどうでもよろし、経営というのを国家から組織される社会(つまりワシの理解では社会=国家だよ、と、てなこと書いてみる)への抵抗のありかたとして模索されていたわけだ。んでもってワシは会社のアイデンティをどうとらえるか、と? たしか、それは使命であったかと記憶しているのだが、禿頭ではうまく思い出せないが、いずれにせよ、ドラッカーは利潤ではないよと強く言明しとこかな、と。このあたりもワシの禿頭の面白いところで、企業の存在意義は利潤を上げることではなく、利潤とは経営のウンコであるとしている。ちょっと薄ぼんやり頭で足すと、つまり、ドラッカーは会社という人間組織と社会と国家の全体像がウンコにある、と。企業の使命とはなにか…端折るが、そして、たしかドラッカーは明言していないが、ワシは暗黙裏に、使命から還元される会社の理念・文化は想定しとるよ、と。してみるに、ワシのウンコというのはその側面が大きいのではないか、というのがワシの理解、すごいよね、っと。さてこのワシの特大のウンコ結構往けてる、とか書いてみる。
 
投稿者: *** (3月 29, 2005 07:27 午前)
 自分でブログでもってそこで書いてくれよな。
 なんであれ、ちゃんとPV取れるブログを維持する努力してごらん。それから、そこを橋頭堡にして、内容レベルで極東ブログを粉砕してごらんなさいな。けしかけてないよ。より強力なオピニオンを出せるブログが出現することで、私のブログなんか、お役御免となるがよいのだから。

産経社説 牛肉禁輸解除へ リスクには適切な判断を

 標題と内容が逆。

消費者の側も「食の安全」には自ら判断することも求められる時代になっている。

 これが抜本的な間違いなのだが…コメントする気力がない。食の安全維持の基本はあくまで国がすること。

毎日社説 国民保護計画 住民の理解と協力が不可欠

 これもよくわからない話題なのだが、ようするにただ法律上の整備ということではないのか。事が起きてから変な訴訟とかされると困るというだけのことでは。

毎日社説 ペイオフ 平時の経済への第一歩だ

 これもよくわかんない社説だな。

 ペイオフの凍結完全解除は経済再生へのスタート台である。銀行経営はまだ大量の公的資金で支えられているのが現状だ。その返済がなければ金融システムは正常化したとはいえない。さらにゼロ金利政策。これによる預金者からの巨額の所得移転によって銀行は危機を脱した。預金にそれなりの利息がつかないうちは経済が再生したとはいえない。平時の経済への道のりはまだ長い。

 OECDからの話聞いてないわけもないと思うが。

ほっとプレートでジョンがいいよ

 ⇒在日韓国・朝鮮家庭料理教室

 ⇒韓国料理レシピ:玉ねぎジョン

 ⇒ナショナル・お料理スタジオ

 ⇒:「ジョン」と「ジジミ」の違いは何ですか。

A:「ジョン(煎)」は材料を衣にくぐらせ焼く調理方法で材料は肉、海産物、野菜など様々です。材料を食べやすい大きさに切り、溶き卵もしくは衣にくぐらせ焼きます。味つけはシンプルに塩と胡椒だけです。
 日本でおなじみのジジミは衣に色々な材料を混ぜて焼く料理です。つまりジョンは材料一つ一つを活かしその材料そのままの味を楽しむわけで、ふつう二品、三品ぐらい作って盛ります。
 「ジジミ」は野菜と海産物、もしくは肉と野菜を一緒に混ぜて作ります。
つまり溶き卵にくぐらせて焼いたものが「ジョン」で小麦粉に混ぜて焼くのが「ジジミ」です。

 ま、ピカタですよ。

はてなブックマークで自分用にタイトルに書き換えてるユーザーさんへ。わたしは困ってます。

 via id:yukatti
 タイトル書き換えは私もやっているので、極悪なのはないか、ちょっと見直した。ま、なさそうか。
 こちらの日記は、パーツをリンクしちゃうことがあるが、はてなBのほうではできるだけ、タイトルをいかすようにしている。それが取れないときは、h1などの見出しを探す。
 このあたりは、マナーの問題かもしれない。
 そういえば、はてなAの登録でも、最初に書き換えられると、ちょっと戸惑う。
 はてな利用のマナー集みたいなものはどっかにあるのか?

簡単手作りハムの作り方

 ええと、経験的手法なので、いわゆる正攻法ではありません。というか、正攻法は以前やってましたが、めんどくさい。
 ちょっと簡単に書きます。秘密はないです。
 ビニール袋にピックル液ロースの塊を入れて(軽くひたる程度)、それを封して、冷蔵庫に2日。
 ピックル液は、最終的なハムの塩加減よりちょっとしょっぱめです。ピックル液は、塩と砂糖を入れます。砂糖はやや甘いくらい。それに香り付けに私はローズマリー(ドライ)を使います。適量。このあたりの分量はまだ定式化してないのですまん。ロースの塊は形成してもよい。軽く糸で縛ってもよい。
 で、2日後、ピックル液を抜いて、ビニール袋のまま、これをシャトルシェフで70度強で1時間から2時間湯煎。以前、書いたローストビーフと同じ。温度管理で30分置きくらいに温度チェック。要は70度で芯まで温度が行き渡るように1時間はかけること。
 出して、軽くスモーク。あれです、フライパンでできるスモークっていう感じです。ちょっと風味付け程度。この工程はなくても大して問題ないです。
 以上。
 このところ、湯煎方式ではなく、オーブンでやっています。200度くらい。1時間。熱が強いと焼き豚になります。オーブン内に焦がしたチップを入れとけば自然に軽くスモーク。
 さてできあがりは…
 いわゆる日本のハムに慣れた人だと、ちょっと焼き豚感があるかと思う。それに薫製式ほど肉質がハムっぽくないというのもあるかもしれない。
 でも、こっちに慣れると、いわゆる日本のハムは、なんじゃこれ、と思うようになると思う。
 ま、お試しあれ。
 ベーコンの作り方も同じ。こちらはバラ肉(三枚肉?)
 ソーセージの作り方も似てるが、これはまたの機会でも。

なんか誤解されているか…

 うーむ、ちょっとよくわからないが、私はこの日記のPVとか誇ってないし、それと自分の知性なんて、よく罵倒者がご指摘するように、たいしたものじゃないと自覚しているけど…(罵倒者に知性は感じないけど)。
 私の書いていることより、よいブログが増えて、ここなんかかすんでいけばいいとほんとに思っているけど。
 この日記は私的なものだし、どっちかというと、気の合う人の掲示板とか情報交換的なものであればいいなと思っている。オモテの話は極東ブログのほうに書く、つまり、あっちは誰かに読んで貰いたいと思って書く。
 で、なんども思うのだけど、ここをプライベートモードというか、クローズドにしてもいいとも思うのだが、うまく言えないけど、それになお誤解されるかもしれないけど、私は、コメント欄とかで見える人より見えない人にけっこう信頼を置いている。というか、そこを開いておきたいと思うのだが。(私自身、静かに読み続ける他者の日記がある。)
 あ、以上とちょっと違うのは、本のアフィリエイトかな。あれは、ちょっとアフィリエイトを意識しているかな(それほど強くでもないが)。そこはそう思う。

ちなみに知り合いに聞いたら記者のあいだでは笑い者ですよ、ここもあちらも。なにしろただの陰謀論だし・・・。

 以下のコメントのくりさんより。
 この話は他コメント欄でも聞く。私としては陰謀論をできるだけ避けるように書いているつもりなので、不思議に思う。海外ネタの場合、ロシア関連以外は、たいて、NYT、WP、Salon、BBC、FT、Telegraphという水準から離れていることはまれなので、この点は率直に疑問に思う。NYT、WPといったジャーナリズムを陰謀論というならちょっと話は別だけど。国内問題の話題で、陰謀論というとなんだろ?
 ただ、なんというか、記者さんがどの記者さんかわからないけど、笑い者にされてもしかたない気はするなと納得する部分はある、というのは、記者さんたちの書かれたものを当方も笑っていることはあるわけだし、そのバカの壁的構造だろうと思うので。

これも誤解されるかもしれないが…うんこコメントをいただく…

 っていうのも、仏法の定まれる習いなり、という感じはする。
 ちょっと「と」が入った言い方に聞こえるかもと思うが、私の意識というのは世界の意識のある反照なんだろうと思う。以魚以水知りぬべしというか。
 その反照部分で、つまり、私とか彼とかあなたという意識はそう自意識で分化されているものでもないので、例えば、罵倒とかは、ある意味で私の意識のありかた(表出)のしかたの相関なのだろうと思う。
 ある意味で、罵倒というのは、交流分析的にいうとネガティブ・ストロークなわけだけど、そうしたインテシティのなにかなんだろうと思う。そして、それに、巻き込まれてしまう私がいるという点で(いるとするなら)それが、つまり私の意識の相関ということだと思う。
 おそらくこうした相関は、例えば、罵倒とか憎悪とかだと、他を分離して自意識側に反照されるが、意識の構造というか、ストロークの他者との関わり、あるいは意識の相関性という意味では、同質なのだろうという感じがする。つまり、罵倒を避けて、愛だけを得ることは無理なだろうと。あるいは、そのように受ける愛と罵倒はつりあう同質の性質を持っているのだろうと。
 罵倒が自然に無視されるなら、それは愛もまた自然に無視される意識のありかたをひそめているだろうし、そして、たぶん、そうした次元での愛というのは、意識のある不完全さでもあるように思う。
 ま、この手の問題は、なぜ書くのかということでもあり、罵倒を投げかけたくなるものをなぜ読むのかということであろうだろう。
 ただ、たとえば朝日新聞の社説に、私など、バカでぇーとか書く。ブログ人格が卑しいのだが、それでも、個別に朝日新聞に関心があるわけではなく、それが持つ社会の意見の構造のなかで、つまり、その社会の関係性のなかで、そう思う、言うことだ。つまり、対性的なパトスというのは、ない。
 それらと、たとえばブログなどでの罵倒とかは、少し違うようには思う。パーソナルだし、プライベートだし。