これも誤解されるかもしれないが…うんこコメントをいただく…

 っていうのも、仏法の定まれる習いなり、という感じはする。
 ちょっと「と」が入った言い方に聞こえるかもと思うが、私の意識というのは世界の意識のある反照なんだろうと思う。以魚以水知りぬべしというか。
 その反照部分で、つまり、私とか彼とかあなたという意識はそう自意識で分化されているものでもないので、例えば、罵倒とかは、ある意味で私の意識のありかた(表出)のしかたの相関なのだろうと思う。
 ある意味で、罵倒というのは、交流分析的にいうとネガティブ・ストロークなわけだけど、そうしたインテシティのなにかなんだろうと思う。そして、それに、巻き込まれてしまう私がいるという点で(いるとするなら)それが、つまり私の意識の相関ということだと思う。
 おそらくこうした相関は、例えば、罵倒とか憎悪とかだと、他を分離して自意識側に反照されるが、意識の構造というか、ストロークの他者との関わり、あるいは意識の相関性という意味では、同質なのだろうという感じがする。つまり、罵倒を避けて、愛だけを得ることは無理なだろうと。あるいは、そのように受ける愛と罵倒はつりあう同質の性質を持っているのだろうと。
 罵倒が自然に無視されるなら、それは愛もまた自然に無視される意識のありかたをひそめているだろうし、そして、たぶん、そうした次元での愛というのは、意識のある不完全さでもあるように思う。
 ま、この手の問題は、なぜ書くのかということでもあり、罵倒を投げかけたくなるものをなぜ読むのかということであろうだろう。
 ただ、たとえば朝日新聞の社説に、私など、バカでぇーとか書く。ブログ人格が卑しいのだが、それでも、個別に朝日新聞に関心があるわけではなく、それが持つ社会の意見の構造のなかで、つまり、その社会の関係性のなかで、そう思う、言うことだ。つまり、対性的なパトスというのは、ない。
 それらと、たとえばブログなどでの罵倒とかは、少し違うようには思う。パーソナルだし、プライベートだし。