「あなた、子ども、いる?」文について
中国語を勉強しているといろいろ思うことがあるが、その一つの雑話。いやそんなことはどうでもいいから、南シナ海とかウクライナ情勢とかブログに書けというのもあるかもしれないけど(ないかもしれないけど)。
正確に言うと、中国語の話ではなく日本語の話。ごく簡単な日本語。「あなた、子ども、いる?」という文について。
きっかけは、中国語の「你有孩子吗?(Nǐ yǒu háizi ma?)」という文。中国語だと、「有」は「有る」という意味だけど、普通に「持つ」という意味で使う。この用法は、日本語の「ある」と同じなんだろうか? というちょっとした疑問からだ。
日本語の場合は、生物と無生物で「ある」と「いる」を使い分ける。「お金」だと、「あなた、お金、ある?」となる。
構文としては同じ。同じく「持つ」で言い換えられる。
「あなた、お金、ある?」
「あなた、子ども、いる?」
「あなた、子ども、持っている?」は、微妙に違和感があるが、間違いではないだろうとも思うのは、次のような言い方なら自然だからだ。
「あなた、お金、持ってる?」」
「あなた、子ども、持っている?」
「いる」に書き直すこともできる。
「あなた、子ども、持ったら、わかるわよ」
大した意味もなさそうな話のようだが、進める。
「あなた、子ども、いたら、わかるわよ」
構文として見ると、次の構文と同じようなので、比較して並べてみる。
これ、意味の構造が違う構文なのだろうか?同じなのではないか?
「その部屋、ゴキブリ、いる?」
「あなた、子ども、いる?」
「いる」を使う主題というのは、その対象を内包する場所的な存在を必要とするのではないか。
「子ども、いる?」というとき、「あなた」も「その部屋」みたいに、なにかを集のできる空間として捉えている。
「あなた」に元来処格的な属性があるわけではなく、「いる」構文のなかで、処格的な属性が付与されるのだろう。あるいは、「あなたに」が処格なんだろう。
つまらん話をしているようだが(すまんな)、こういうふうに人称が処格的な空間として表現される日本語の現象は、印欧語にはないんじゃないか。
とは言えない。
* Is there children in you?
ここでちょっと話がずれる。
印欧語だと、フランス語の半過去とか、英語の現在完了みたいな構文で、avoirやhaveが使われるが、これらは基本的に、過去の事象の経験を所有しているというところから発生している。
というのは、"this book was read"が、Iの経験空間にhaveされている、というのが原義だろう。
I have read this book.
ところで、中国語だとこうなる。
経験空間はなさそうだが、否定すると「有」が現れる。
我读了这本书。(Wǒ dúle zhè běn shū.)
となるかと思う(ちょっと自信がないのだが)。
我没有读这本书。(Wǒ méiyǒu dú zhè běn shū.)
いずれにせよ中国語の場合、完了相の否定で「没有」が出てくる。
中国語のほうが日本語より、印欧語のavoirやhaveの感覚に近いかもしれない。ただし印欧語のようにはならない。これは言えない。
言えないと思う。
* 我有读这本书。
何が、このあたりの諸言語の文法意識を支えているかよくわからない。文法ではなく、語用・慣用の問題なのだろうか。
話を日本語に戻す。例えば、こういう日本語。
省略されているのは、特殊な文脈がなければ「わたしに」あるいは「わたしたちに」である。
子どもがいたら、それなりにやっていけたと思う。
このとき日本語のネイティブの感覚としては、なんか明るい居間に子どもがいるようなイメージが浮かぶ。
その心理的な居間が「わたし」あるいは「わたしたち」という心理的な空間に重なっている。
そこで次のように言い換えると、なんか微妙に、ちがーうという感じが浮き立つ。
そう言えないこともないかと思うが、なんか微妙な意味に変わっている。でも、まあ、違うな。
私たちが子どもを持っていたら、それなりにやっていけたと思う。
先に「ある」との差を述べたように、無生物だと「ある」になる。
「わたしに」あるいは「わたしたちに」という含みは特定されなさそう。生物の「猫」はどうだろうか? 「子ども」と比較してみる。
お金があったら、それなりにやっていけたと思う。
同じ意味構造だとも言えるが、「子ども」だと、やはり「わたし」あるいは「わたしたち」が子どもを産んで持つという含みが出てくる。
猫がいたら、それなりにやっていけたと思う。
子どもがいたら、それなりにやっていけたと思う。
あなた、猫、いる?
あなた、子ども、いる?
「あなた、猫、いる?」だと、«As-tu besoin d'un chat?»みたいな意味に聞こえる。
ふと、「いる」は、「居る」と「要る」と分けなくてよいのかとも思ったが、前者は「ゐる」で後者は「いる」。つまり、「要る」は「入る(いる)」から来ているから、「居る」と「要る」は別語ではあるな。