8月7日

 猛暑復活だが、これでもまだ先日の猛暑には及ばないので、今週末が怖い。だいぶ身体に影響が出て来た(まあ、つらいですね)。
 
 ツイッターでちょっと呟いたが。
 自分からこの人は不幸になってるなと思える人を見ると、なんとなくいたたまれないような気がしたものだが、その選択もその人の自由意志の結果なのだから、尊重して見守ろうと思うようになった。
 なんか可哀想だなと思えたり、その愚痴や非難を私などに向けてきても詮無いと思うのだが、私からはなにかとやかく言える権利のようなものが私にはそもそもないように思えてきた。
 大病というわけでもなければ、尋常ならざる不幸というのでもないなら、ほんのちょっとの心の持ち方で、人生は変わるものだが、それは本人が自覚するしかなく、私が関われる問題でもない。
 もちろん、私自身がそうした側にいたかもしれないし、今なおいるのかもしれないが。
 そうして、なんというか、一生、ちょっとしたが空回りや怨恨感、不平感のなかで、本人が選んだ不幸を過ごして、それでよかったのかというと、それもまた人の普通の一生というものなのだろうと思う。
 あと。
 こうもつぶやいた。
 他者に罵倒を投げかける人も、投げうるという前提の確信のなかに関係妄想があるし、その罵倒や怒りはその人の求める不幸の反映なんじゃないか。
 その人が内面に幸せがあるなら、他者への視線にも幸福が基準になるように思う。
 この点については、自分も多々反省するところはあるが、その意味で振り返ると、基本は自我肥大と世界の否定があるのだろう。前者はそれでもわかりやすいが、世界の否定はむしろ当然にも思えたものだ。が、世界がそう見えるということそれ自体が、自我肥大の結果でもあるのだろう。
 
 ま、なんだかスピリチュアルなこと言っているみたいだが、ごく普通にそう思うようになってきた。