月曜日、8月5日

 私事でどたばたとし、夕方は、筋トレ。
 くたっとして今日はおしまい。
 
 あ、つけたし。
 そういえば、Acimでは執拗に「神は罰しない」というメッセージが語られる。これは、西欧的キリスト教(正教も同じだが)のように、神が究極の正義として世界に向き合うということから必然的に出て来てしまうのかもしれないが、日本人には、少なくとも私には、こうした処罰する神というのは、義の理念では理解できても、恐怖としてはない。なので、Acimのこういうところは日本人にはピント外れだなと思っていた。が、今日、ワークアウト中に、おや、そうでもないかもしれない。と思った。処罰する神ではなくても、自分が過剰に自省して承認を得たいような神観というのは自分のなかにあるな、と。日本人は、とくにイデオロギー的なセクトで顕著なのだが、法=正義の処罰ではなく、自省による自罰として粛清を行うところがある。自分はこの手のセクト思考からは免れていても、自省から自罰という義の回路はあるものだと思った。もちろん、それがなくて反省もしないというのはなんだが、問題は、義の承認のための反省という心理は、Acimが扱う処罰神と同質なのだろうと思った。合わせて、過去の過ちというのは、今それが心のなかで訂正されれば、人生というものレッスンの終わりなのだろうとも思った。