365: Lesson

This holy instant would I give to You.Be You in charge. For I would follow You,Certain that Your direction gives me peace.
 
EPILOGUE : Lesson
 

This course is a beginning, not an end. Your Friend goes with you. You are not alone. No one who calls on Him can call in vain. Whatever troubles you, be certain that He has the answer, and will gladly give it to you, if you simply turn to Him and ask it of Him. He will not withhold all answers that you need for anything that seems to trouble you.
 この講座は始まりであって終わりではない。あなたの友はあなたと友に歩む。あなたは孤独ではない。友を呼んで応えのないことはない。どのような困難にも彼は応える。彼は喜んで応える。ただあなたは求めればいい。

 レッスンは終わったが、道が終わったわけではない。友とは聖霊のことだ。
 『祈りの歌』ではこの聖霊への問いかけが、多少意味合いが変わる。ぶつぶつと聖霊に問いかけることではない。

And now I place you in His hands, to be His faithful follower, with Him as Guide through every difficulty and all pain that you may think is real.
私はあなたを友の手に繋ぐ。友はあなたと信頼をもって歩む。困難は苦痛がどれほど真実に思えようと、友は導く。

 JACIMの訳を見ると、「友」ではなく、「聖霊」とある。Heの大文字の意図を汲んでだろう。
 実際のところ、レッスンは聖霊が共にあることを学ばせることであった。
 我ながら実に愚かなのだが、このレッスンが聖霊の業であり、そのれが平安であることが、ここに来てようやくわかった。ワプニックの著作を読めば理解はできるが、心底納得してわかるというのはこの数日のことだ。
 世界は幻影である。自我が神の子を分離して見せる視野がこの世界である。本当の世界、キリストのビジョンは、聖霊を通して与えられる。そう言えばそのままACIMのロジックなのだが、これは自我の業ではないということだ。自我ができることは、納得し理解することだ。あとは聖霊に委ねよう。
 不思議なことに、明日かあさって、JACIM訳のテキストが届くだろう。ここから先はテキストを読み続けようかとも考えている。
 テキストは最初の章に、ワプニックが指摘しているように、多少錯綜している。なかでも冒頭は原理がまとまりすぎている。そのまま冒頭から読むとさらに混乱しそうだ。
 どうするかな。