364: Lesson

This holy instant would I give to You.Be You in charge. For I would follow You,Certain that Your direction gives me peace.
 
 レッスンは「赦し」が基本になっているとはいえるが、振り返ってみると、信頼というのか神へを信頼せよという呼びかけが多かった。同じことの繰り返しで辟易とするのだが、これは同時にいかに赦しというのがきついものかということでもある。
 「赦し」というのはそもそも不可能なのではないか。Acimというのはヘレンのオブセッションなのではないか。そういう疑念がなんども湧くし、それを一概に否定もしない。
 が、振り返ってみると、「赦し」というのは自我の業ではない。赦すと理解してあとは神に委ねることであり、神を信頼することの一つの帰結である。では、どのように神が信頼できるのか。神が信じられるのか。
 私の、残念なことではあるが人生の結論は、信仰というのは無理だということ。人は信じることはできないし、あるいは信じているときは欺瞞があるだけだ。ただ、それを信じていると言う人を批判すべきではない。
 では。Acimのレッスンを振り返ると、信仰の不可能性は先見的に含まれているのではないかと思う。ここは逆で、レッスンとは神への信頼を鼓舞するのではなく、神の側は私に向けて信頼を懇願しているということでもあるのだろう。そしてそのことが聖霊という働きであり、呼びかけるのがキリストであり、キリストが神の子であるというのは、呼びかけられた私が神の子であるということだ。その原理だけ抑えれば、キリストなりイエスなりというのが私という固有性が私の了解にあるように、そしてそれが本質において神の子という普遍性であるなら、「キリスト」も「イエス」も必要とは言いがたい。実際、マニュアルでは明示している。
 その意味では、宗教というより、究極の精神分析とでもいうべきもなのだろう。心の安らぎを妨害している自我の仕組みをここまで暴き出した教えはないし、その暴露の神聖さのようなものがヘレンのなかで人格のように集まったとしてもよいだろう。
 ヘレン自身がまさに自我の典型例として存在した。比喩的に言えば、神は酷いことをされるとも言えるが、結果を見れば、ヘレンは神に仕えたし、聖書(旧約聖書)の預言者とまったく同じだった。神の言葉を預かるがゆえに迫害された。
 キリスト教もまた宗教であるかぎり歴史的な啓示にともなう迷路を含み込む。それは避けられない。が、今ここにある人々への直接的な教えであるなら、そこは整理されてもよいだろう。端的な話、食物規定のようなものは捨象されてよいだろう。