363: Lesson

This holy instant would I give to You.Be You in charge. For I would follow You,Certain that Your direction gives me peace.
 
 このレッスンを始めたのは2012年3月11日だった。その日の日記にはとくに書かなかったが、言うまでもなく、震災が関係していた。あの震災で、多くの偶然的な死や不幸を見た。それにどう向き合っていくのだろうかと、自分は思った。もちろん、そういう問いかけも間違っているかもしれない。
 少しずれたところでは、やすやすと一年が過ぎたことへの恐れがあった。あともう一年がやすやすと過ぎるとしたら、自分の人生とはなんだろうか。どのように考えたとしても惰性であり、そしてつまるところ、自分が生き延びているのは幸運という偶然に過ぎないのであれば、それはどういうことなのか。
 今思うと、この時の思いが底流として『考える生き方』の執筆につながった。そしてそれはそれなりに一つの形になった。うまく言えないのだが、自分のつまらない人生のなかの、そのつまらなさの普遍的な部分で、多くの人の人生と共有・共感できるものがあればいいし、率直にいって、不要な誤解を避けるためにネットの公開でないほうがいいだろうと思った。それでよかったかどうかは、私にはいまひとつわからないが、「日本人の」という限定をそれほどしないにせよ置いて、ある偶然という幸運のもとに生きていく、奇妙な意味と、そのなんというのか、楽観的な部分をできるだけ伝えたかった。直截には書かなかったし、さらっと読めるように書いたけど、普通の人としての苦しみにある人は、私くらいには生きられますよ、そんな思いだった。職を失うことは普通のことだし、友だちから見廃れることもある、精神の不調を来すこともある、結婚もできない子どもももたないということもある(が、自分は偶然そうでもなかったが偶然だった)、難病になることもある、など。自分をあまり悲劇に書きたくはなかった。本当は、自分をもっと低くめて書けばより伝わるだろうと思ったが、偶然的な幸運もあり、そこはうまく行かなかった。低く書くことがそれなりに嘘になってしまいそうだった。
 あの本で残る部分はもちろんある。出し惜しみというのでもないつもりだ。自虐的に「自分語り」とは言ったが、私の特性でもあるが、それほど自分のことは語っていない。自分が人として見える部分を語ったということでもあった。そうではない部分は、cakesで書評のかたちでかなり表現出来た部分もあった。
 うまく言えないが、それでなお残る部分、あるいは、2012年3月11日からの一年をどう考えるか。こう言うのも正確ではないが、神に捧げようという思いもあった。私は、あの震災の洪水のなかで死んでいった一人の人としてもなんら変わりのない存在であるなら、そのことを忘れないための一つのありかたとして一年を神に捧げよう。
 今その一年が、実際には一年三か月が過ぎようとして、私はどう死者たちに向き合うだろうか。そこで、うまく言えないが、薄く「日本人の」という限定もあるだろう(本質ではない)。
 偶然生きた私、偶然死んだ人々。その差は、たぶん、運命というほかには何もない。こうした私たちの存在というのは、どのように祝福されるのだろうか。一年を神に捧げるという思いは同時に、それを神に問いつづけてみようということでもあった。それに見合うだけの苦悩は、苦悩としては些細なものかもしれないが、自分なりには十分にあった。
 おそらく結論は、矛盾するようだが、洪水で亡くなった人は祝福されているということだ。それは、このところ言う「完了の相」としてそうだが、ではそれに納得できるか。納得というなら、今ここで私が事故死しても、それは祝福なのか。人生は無意味ということの言い換えではないのか。
 答えは神話的にはある。人の人生は同じもので、死を経てまた生きるということだ。蘇りというのでもないが、そもそも私が苦悩なりを抱えて生きているというのは、多数の死者の蘇りそのものということだろう。
 私という実体は存在しようもない。私というのは、この時間に限定された存在であり、この限定と条件のすべてが私であるかのように見せている幻影なのだ。では無に等しいのか? むしろ生きることを可能にした苦悩の条件が生そのものの意味を内包しているだろうし、死者たちはまたその苦悩なかで無数の「私」として再生するだろう。
 意外といってもいいが、問題は、私が向き合う死者というより、この私が死者たちの苦悩をそのままにして生きているということだ。理路がゆがんでいるかもしれないが、死者たちの祝福とは、この凡庸な苦悩を抱えた「私」というものの平安であろう。
 間抜けなことに、「平安」ということの意味をここにきてようやく、少し理解してきた。