佐藤直樹「40年後の『偶然と必然』」、読んだ。

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40年後の『偶然と必然』
 最初手にしたとき、論旨の展開か見えず、読みづらい本ではないかという印象を持ったが、モジュール的に書かれていて各項目は小さく、逆に読みやすい本だった。では、わかりやすかったかというと、各項目で展開されている内容はわかりやすいのだが、全体としては、何を主張しているのかわかりづらかった。
 こういうとなんだが、いや否定的に言うのではないが、なんのための本なのかがわかりづらい。もちろん、そのことについて筆者はかなり自覚的でわかりやすくあろうとして説明もしている。
 具体的には表題通りモノーの「偶然と必然」の読解の書籍であり、上述の点ではモノーの背景は1970年代の時代背景(実存主義ソ連科学など)を含めてわかりやすい。
 また、書籍は、私は経験ないのだが、日本の大学でのゼミというのはこういうふうに展開しているんじゃないかなという関心はあった。
 内容がもわっとした印象があるのは、そもそもモノーの「偶然と必然」がよくわからない本なので、それを精密に読もうとしてそのままよくわからないが拡大されてしまったような印象がある。むしろ、モノーは時代遅れだし、言っていることはおかしいよ、とネットなどでみかけるお利口さんのようにばっさり切ってしまうとわかりやすいのはわかりやすいのだろう。
 一番の問題はモノーの"teleonomic"にある。"teleology"(目的論)だが、本書で読解されているように、「目的律的な合目的性」ということで、これは私の印象ではどういじっても合目的性に到達するし、そもそも生命現象が謎になるのは、普通に見るかぎり、合目的性そのものだからだ。
 しかし、全てはそうした合目的性をもたない、熱力学の法則に従う物質からなんで、局所的にであり、合目的性が発生するのかという仕組みが問われる。
 これには各種いろんな説明がつき、本書の著者も生命のなぞは解けたと言っているのだが、私はそういう合目的性のモデルができたとはとうてい思えない。実際、端的にできていないとしか思えない。
 同書は、生命の発生は宇宙では頻繁に起こりえるというのを前提にしているが、これも私には実証性からまったく理解できない。
 というわけで、本書でもモノーの書をばっさり切る批判例が上げられているが(カウフマンなど)、私もそれでしかたないのではないかと思う。
 という点で、実はモノーの思索はベルクソンシャルダンに近いというのが本書ではよく解かれている。
 話が前後するが、生物化学的な部分についてはむずかしいといえばそうだが、プリコジンの議論でもそうだが、展開されている例証に対応しているとは読みがたく、こうした問題は普通に哲学として扱うほうがわかりやすいように思える。つまり、科学を装った哲学のようなものは、20年のすれば古びてしまうものだ。
 総じて、マイケル・ポランニの触媒などの議論と同質の印象を再確認したような奇妙な気分で終わった。
 話がおちゃらけてしまうのだが、こうした生命を解き明かす系の話はどこまでいってもたこつぼのように思える。むしろ、生命のシステムシミュレーションを数学モデルで作成したらよいのではないかと思うし、逆にそれは、できないことなんじゃないかという疑念ももつ。私はID論者ではまったくないが、デムスキー批判を宗教論だとかしてイデオロギー的に批判するよりも、彼の数理モデルだけを見つめていけばよいように思う。というか、それが間違いであるという論証らしきものもあるのだが、これはシンプルな定理のようにはならないものなのだろうか。
 別の言い方をすれば、teleonomicという概念があるなら、それをコンピュータ上にライフゲームとしてモデル化して、自己組織化するかシミュレートしたら話は一発で終わるのではないか。