木曜日、5月1日

 五月となった。
 喉の痛みはぼちぼちという感じ。症状は喉が中心だと思っていたが、どうも全身ぐったり感はあり、風邪でしたね。
 栗本さんのこれを読む。「遺書」とある。まあ、「遺書」なんだろうなと思う。
 

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栗本慎一郎の全世界史 ~経済人類学が導いた生命論としての歴史~
 ツイートもしたが、この本を批判的に理解できるのは僕だけかもしれないなあという奇妙な思いに駆られる。自分だけがこの本を理解できるという意味ではない。うまく言えないが、15年前まで栗本さんの思想を追い、そこから別に自力でこうした問題を考えてきたからだ。(一例は、「ミトラ教」でブログ検索してもらえば。)
 書評的にはトンデモ本で終わるだろうし、そのことを栗本さんも自覚している。そうした予想された著者の自覚をなぞるような書評は利口ぶったおバカさんみたいなので、そうした評は避けたいかな。
 では個別の議論、あるいは個別の問題系列を切り分けて議論すべきかというと、そこも難しい。
 基本的に方法論の倒錯のような部分はある。が、それはポランニ(K)にもあるとも言える。問題は、というのもなんだが、ポランニについてドラッカーが指摘したように、小さな隘路に嵌ってしまったことだろう。問題のスコープは大きく見えそうだが、実際には、問題設定はとても小さい。と、いうと批判めくか。
 感傷としていえば、栗本さんをある意味、こちらも追いかけてきた人生だったので、そうした知の人生の航路というのを見せてもらった謝念のような気持ちもある。
 そうしたところがなんとも複雑だなと思う。
 それとは別に栗本さんからは病に向き合う態度のようなものを教わったように思う。まさか自分も難病になってしまうとは思ってもいなかったが。