あの小説の色のこと

 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で、色彩とされているわりには、出てくる色は、赤、青、白、黒、灰色、緑、ということで、白黒はおよそ欧米では色ではないので、なんとも変な感じがする。色で五人ということなら、五行の色、つまり、五色でいうなら、大ざっぱに、赤、青、白、黒に、黄が入る。この小説では、「黄」がミッシングなのかというのがよくわからない。五色であるなら、多崎が「黄」に相当するハズだが、そうでもない。勘で言うと、沙羅が「黄」に相当するのかもしれない。
 ツイッターでもちょっと書いたが、夢のなかで、別の自分が自分に、この作品の解説をしていて、灰田がこの作品の本来の主人公というか「私」であって、多崎は初期作品の鼠である、というのだ。私はふーんと聞いていて、起きてから、そういう解釈がなり立つかなと疑問に思った。
 灰田の「灰色」が、白と黒の中間であることは、性夢からも明らかだろう。
 「多崎つくる」の名前になにか暗号がありそうだが、よくわからなかった。アナグラムかなと思っていろいろ睨んでみたがわからず。
 『風の歌を聴け』のようなタイプのトリックがしかけてあるとも読めないことはないが、そこは扱いが難しい。概ね、その懸念を作者自身が心配しているふうでもある。
 トリックは別とすると、この作品は、「直子」の物語で、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』のように、自殺はしていない。「直子」の自殺は、『ノルウェイの森』で遠隔化されているが、今回の作品ではさらに遠隔化されている。いずれにせよ、妊娠とその死がコアになっていて、それと恋愛の関係がありそうだ。ただ、このあたり、作者の実経験にどこまで想定していいかはわからない。
 村上春樹の小説は、アマチュアの小説書きのように死を多用する癖みたいなものがあり、その死の思弁性と情感が重いわりに、死のリアリティは薄い。