木曜日
だいぶ温かくなった。あっというまに三月も中旬に。
いろいろ散漫に本を読んでいる。いろいろ思うことはある。
ひとつには、震災の日が近づいていることだ。あれからもう2年経ってしまったのかという思いに、ちょっと愕然としている。昨年もそうだった。一つのメルクマールにACIMのレッスンを始めた。きちんとこなせば、1年ということだが、現在270。終わるのは3か月くらい先になりそうだ。もっとかもしれない。
この一年で55歳にもなった。そうした思いからの、本も書いた。どこまで届くか、見えない。かなり届いた実感はあり、多くの人に感謝したい。まあ、みんな普通に生きて行きましょうのメッセージでもある。
蔵書の整理をしないとと思いつつ、なかなか3月には手がつけられない。資料の整理もしないといけない。整理っていうのは、簡単に言えば、捨てることだ。
本を捨てるはつらいものだなと思うが、捨てて捨ててきた。これまでどれだけ捨ててきただろうかと思うが、しかたない。
というか、いずれ目は見えなくなり、本は読めなくなるだろう。耳も聞こえなくなる可能性がある。そうなると、本とはお別れである。
生きているうちに、いろんな執着から、引きはがされる。つらいないなと思うが、ある程度、離れると、それが普通に執着でしかないとわかることもある。
こういうとなんだが、自分が、脳みそに積み上げてきた知識ともお別れしなければならない時はくる。そしてその前に、そうした知識をすべていったん忘却してもよいのだろうと思う。
なんか宗教めいたことを言っているみたいだが、不可知の雲というのは、忘却の雲でもある。同じではない。不可知の雲に入るには、忘却の雲のなかに、自分の知識のすべてを覆う必要がある。
なぜという思いもあるが、それはそれでいいんじゃないかという思いもある。
街中のウィンドウなどにふと自分の相貌を見て、立ち姿や歩く姿は遠目には若いようにも見えるが、ふと顔などのぞけば、もうこれは老人である。
声は、なぜか、あまり老けない。というか、しゃべり方と声のはりはどうも30代くらいのまままだ変わらないように思う(自慢とかではなく)。
春らしい街を歩いていると、自分がまだ若いような気にもなる。若さの情熱や焦がれるような不安や性欲みたいなものは、あまりない。ただ、それでもどこかしら若いような気分がふっとすることがある。