曇り

 蒸し暑い。
 夜中、自分が絶叫して目覚めた。汗だらけでシャワーを浴びて着替えた。時計を見るのが怖いというかうっとおしいので何時だったは覚えていない。その後、しばらく考えて、眠った。
 もうその恐怖についてはあまり覚えていない。が、しばらく考えたときの記憶から構成すると、夢の中の私は、恋人か妻かわからないが、愛した女性から捨てられ、私を見捨てないでくれ、と叫んでいたようだった。
 そういう経験はない。私は、私を捨てていった女性を感情を込めて呼び止めたことはない。もともとあなたはそういう人だし、この世界はそういう人に向いているのだから、自分らしく、そしてこの世界に帰っていくのがいいだろうし、そういう時期なのでしょう、と私を捨てた人について思って過ごしてきた。
 しかし、そのことで内面に悲痛感はあり、身体的にも痛みがあり、それが今でも肉体に潜んでいることを知っている。それが夢の形で表出したものだと考えるのが一番妥当なのだろう。
 が、寝つかれずその恐怖を考えて思ったのは、これはおそらく幼児期のトラウマだろう、ということだった。私の記憶が定かではない時期の母子関係の影響があり、むしろ、恋愛の失敗はその母子関係の反映かもしれない。
 むずかしいのは、私の母親が私を虐待していたか、ということだが。これが事実認定がむずかしい。証拠はほとんどない。実際に生きている老婆を見てもわからない。
 おそらく彼女自身に虐待の自覚はなかったのだろう。しかし、結果的に虐待だったのではないかというあたりになりそうなので、母親を憎んでもしかたないし、あまりフェアなことではない。
 それでも、私は私の身体に残る、母親が原因の傷痕があるのだが、それについて、母親は私に対して罪責感はないのだなと奇妙に思っている。若い頃問いだしたとき、いかにお前を守って必死だったかということを語るのだが、それはどうも彼女が外部からバッシングされたことの意識しかないようだった。まあ、そういう人が母親なのだろうと諦めた。
 だが、それもまた心の奥では悲痛な叫びになっているのだろう。
 Acimでは赦しということを言う。これがとんでもなく難しい問題だというのはレッスンを続けていくとわかる。意識として合理的な帰結として赦しということは可能だが、心の奥底にそれが行き渡るわけではない。まして、その深奥の近くには自我の基本構造があり、むずかしい。そのため、Acim的な赦しは欺瞞になりやすく、そのことをAcimも理路正しく説明している。
 Acim的に透かしてみるなら、私のトラウマは私が無意識に作り出したものだし、そう捉えたときに私はそれを棄却できるだろう。私が私の心のなかの悲痛を作り出したのか。それはそうなのだというのは、Acimを鵜呑みにするのではなく理路としてはわかる。
 こうしたものを見つめたとき、Be here now、今を生きる、ということではどうしようもないものが心の仕組みにあるがわかるし、今を大切にするKもそのあたりは別の説明をしている。
 こうして書きながら、心のなかに悲痛感はない。母親のことを書くのはよくないかとも思うが、意識的にはほとんど罪責感はない。
 それでも生きるのはつらい、きついというの明確にあり、それが内面のトラウマと関係していることはわかるので、まだまだ絶叫して目覚める夜はあるのだろう。
 そういうトラウマのない人生というのはうらやましいとも思うが、それなくして生きているのは他者であって、私ではない。私は私のこのつらい人生を生きるしかないし、「つらい人生」という欺瞞にけりを付けるが私の人生に課せられた私だけの意味なのだろう。