曇り・小雨

 蒸し暑く、気分が悪い。
 Twitterで「いじめ」問題をいろいろとつぶやく。まあ、通じないからやめとけと思ったけど、ちょっとタガが外れた感はあり反省。
 「いじめ」が現れたのは1980年代という意味、またそれがメディアを通して「自殺」の文脈で考案されたこと、こうしたことはなかなか通じない。
 「いじめ」は村社会にも戦前にも、人間社会ならどこにもある的な反論をいただくのだが、それは「暴力」の一般論や起源論の問題。
 1990年の4版までの「広辞苑」に「いじめ」はなかったという意味への考慮も想像力も難しいものだろう。
 それはつい実態があったが言葉はなかった程度にも理解される。
 そうではないのだよ。
 言葉が生まれるということは、それを社会が共有意識化した表れで、その共有意識化のなかで現象が理解され、一種の自己予言のように、「いじめ」による「自殺者」を誘導してしまうのだ。しかも、暢気に正義を語っている人間が結果として自殺の幇助をしているに等しい。そんな残酷な事態になっていることに、人が気がつくことはむずかしい。
 ああ。
 別の解でいうなら、愛がなくなったということ。「いじめ」を受けた人間は、「愛」が剥奪さた状態で、それは死ぬほどつらいということ。必要なのは正義ではなく、愛。