23 : Lesson

I can escape from the world I see by giving up attack thoughts.
 
 「attack thoughts」と簡素な表現になっている。vengeanceは変化形を含めて本文に2つほど。facimはそのまま「攻撃的な考え」としているが、大内訳では「復讐の思い」としている。

 キモは最後の、
When you finally learn that thoughts of attack and of being attacked are not different, you will be ready to let the cause go.
というところで、理知的には理解できる。が、これを心情的に理解しようとすると、気持ち悪くなってのたうちまわる。このあたりは世界や他者からこっぴどい目にあったことのない人への羨望のようなものも混じる。神様、それはあんまりだ、といった。
 facim訳で読み直していくと、テキストにもある、珍妙とも思えるれいの因果論が興味深いといえば興味深い。
There is no point in lamenting the world. There is no point in trying to change the world. It is incapable of change because it is merely an effect. But there is indeed a point in changing your thoughts about the world. Here you are changing the cause.
 この「結果というものは変えられない」というロジックが、いま一つわからない。率直にいうと、Textの強迫的ともいえる執拗さとあいまって、一種の精神病理的な印象すらある。
 ただ、acimのロジックだと、現象・知覚の世界は不在・非存在、ではあるが、そのレベルでは動かせないものだということがあるのだろう。
 ゲイリー・レナードの本も読んでいて、それなりに思うことはあるのだが、彼が強調する、思考というか知覚が原因となって身体が幻想・生成されるというacimのロジックはわかりやすかった。デカルト的あるいはカント的(厳密に言えばそれは違うのだが)、身体・物理(physicality)なる客体があってそれに知覚・思考が不随するという図式を描くのだが、acimはこの逆になる。それ自体はたんなる逆の構図なのだが、思念から生み出されたphysicalityはもはや幻想ではないというロジックが隠れているのだろう。「もはや幻想ではない」はしかし実在ではないにせよ。知覚が疎外した物性はそれ自体が客観的な物性として振る舞うということだろう。acimのロジックは狂気じみているが、厳密というか、現象学的に考えていくと、どうもそちらのほうが徹底している。
 実は、デカルトの命題も、そしてカントも、この点について悩んでいたようだ。むしろ、その強迫的な表明が彼らの哲学でもあったと言えるだろう。
 ポストモダニズムは脱形而上学なりプラトン主義からの脱却を最初に置いているが、これは現象学を筋だって考えてみても、そう暢気な問題ではない。